道すがら、私が、

「あの納札に書いてあった、お寺の名前はなんなんですか?。」と、聞きながら、ずた袋から札を取りだそうとすると、お母さんの方が、

「あれは、仏様から許されて、私の心の中に築いたお寺なんです。」と、答えて、自分の札を見せてくれる。

「あっ、そうなんですか。」と私。彼女が、

「わざわざお参りに行かなくても、いつでもお祈りが出来るんです。」と、ニッコっとして、ちょっと自慢そうにする。」だから、私は、

「へー。」。彼女は、

「カタツムリみたいに、お寺と一緒に歩いているんです。もう八十八か所の順番も関係なくて、仏様の言われる通りに気の向くまま、お参りをしてるんです。」そして、弾んだ声で「いつか現実のお寺になるかも知れないと思っていますよっ。」と言い、娘さんと目を合わせた。

 私は、『まっ透明な永遠の命や、自然の摂理を認識するのに、こういう形もあるのかなぁ』と、思う。

 押し並べて、永遠の命や自然の摂理や法則は、意識や振動だから、直接的な目に見えるような形はないのだけれども、彼女の心の中の寺のように、主観の中で、永遠の命や自然の摂理や法則を、仮の形、つまり、方便として認識すると、その本人にとっての悟り(解脱)の方向が分かりやすくなるのだろうと思う。

 このような形が、発展して、実際の仏像になるのかも知れない。

 そして、方便としての仏像が、用途によっては、心理的に複雑多様化して、数十年に一度しか御開帳しないような秘仏という仏像になるのだろう。

 秘仏にしておけば、信者さんにとっては、仏像があるのは分かるが、普段は形が分からない訳だから、信者さんの心の空間に、仏のイメージがそれなりに作られる訳だ。それが、やがて永遠の命や空性という普遍的基盤に導き、悟り(解脱)に入るのだと思う。もちろんイメージは、価値観であったり、道徳心的であったりもすることもあるだろう。

 私は、彼女たちとは同じ道を歩かずに、再び、山道に入って、次の札所へ向かった。・・・つづく。