和尚のような生き方とはどんな生き方なんだろう。
この人や世間から見れば、私は、修行と現実の生活のはざまで、愚かに迷っているだけの人間のようなのかも知れない。今の時代に、何があったのか知らないが、「行をして生きていこう」なんて思い込み、・・・、何を言ってあげたらいいのか、・・哀れに見れるのだろう。
ちなみに、私が行に入ったのは、ある大聖に誘われたからだ。その大聖とは、通称、シュリーグルデブと呼ばれていた聖者で、インドの北のシャンカラチャーリヤの位牌を、一時期ついでいた方だった。その大聖が、あの世から、私のところに威光とともにあらわれて、私を行に誘われた。ほんの短い時間のことのように私は記憶している。ただ、それがいいのか悪いのか、・・・私はこのざまだ。
私が、私の範囲で勝手に言わせてもらえるのなら、今の時代は、各々の本人に自覚がないまま、嘘もどき、詐欺もどき、屁理屈もどきが、一生懸命な心で、不信をはびこらせていると思う。仕方がないので、ある人々は、現実を二重底三重底にしながら、人々に希望を伝えようとするが、悲しいかな、そのこと自体が、希望を潰して進んでいるように思う。
だから、修行なんて血迷っいるのだと言われても仕方がない。それか、「修行が足りない」と言われるだけだ。
不殺生と言いながら、命を食べている人間世界に、簡単に納得できる理屈があるわけないだろうし、物質に頼らなければ生きていけない人々には、物質と精神の狭間は、矛盾でしかないだろう。また、生きたいのに死んでいく人たちの絶望に、諦め以外に、簡単な納得はないだろう。極めることに、いくつもの生に値するだけの時間が、普通はかかるのだから。
それでも、今日のおじさんのように、一生をかけて、敗戦国の戦後をうまく耐え抜き、菩提心からの至福を多少なりとも感じている人もいる。おじさんは、あの田んぼの隅の方のただの露天ぶろに入って、朝な夕なに空を見て、お月さまを見て、伸び伸びとゆっくり過ごしている。そして、それが一番幸せなことだと言う。
「和尚、わしは、こんなに幸せでよいのか」と、おじさんが、酔いに揺れながらしみじみ言う。私は、
「そうだよねぇ。おじさんは、社会の一番端のところで、バスタブを用意して、誰かの役にちょっとだけたったんだけど、その生き方だと、人生道にやり残したことがないように思うよ。」と答えた。
政治家や役人が苦労しながら一億円を配っても、きっと、おじさんには頭が上がらないと思うよ。私は、おじさんのように、人生の終盤において、理屈や正当化を抜きに、心を満たすことの出来る生き方が、一番だと思うよ。政治家や役人はどうなんだろう・・?。
生と死の境目の菩提心は、満月のように円満で、野良ネコにも人間にも良くも悪くも平等なんだよね。・・・つづく。