心の話ではあったが、結局、ばぁさん、今、元気。お婆さんは、心を埋めることが出来たのかも知れない。
私は、お婆さんの丸ごとの励ましに、自分の心の隙間を見つめて、『どんなに分かっていても、埋まらないなー。』と、思いながら、托鉢をせずに種間寺を出発した。
岐阜の山の中で、一生をかけて少しづつ直していこうと決めることが出来たはずなのに、・・・・一人で、どこまで身を削れば、いいのだろか。『また消えるまでか。』『そうかもしれない。』もう少し器用な生き方が出来たらなぁ。
町中を通って、田園風景の中を、ふらふらと歩く。道沿いに、大きめの水路があって、そこを水がなみなみと流れている。隙間のない流れだ。とても綺麗だった。私の心もこうあって欲しいものだ。
第三十五番清滝寺(本尊・薬師如来・おん ころころ せんだり まとうぎ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りする。小さな滝の水を一口だけ頂いた。
それから、来た道と同じ一本道を引き返す。すると、水路の中の溢れんばかりの水の流れに、目がとまる。生き物の様な躍動的な流水波が、妙に丸みをおびていて、そのまま命に見えてくる。
見上げると、今日は、雨が降りそうなので、屋根のある場所にテントを張りたい。山の方に向かってひたすら歩く。これまでの経験で何とかなると思っていたのだが、いい場所がない。今日は雨ざらしでテントかと諦めてた頃、四国道の休憩所が、目に入ってきた。屋根がある。誰にも文句を言われない場所だ。今日は、ここにテントを張ろう。
テントの中で、私は、日記に、「たとえ遍路の道が、どこかの誰かが始めた見知らぬ道でも、歩くその人のその心の中の祈りと、その心の中の仏法がある限り、歩くことの出来る道、人生遍路の道しるべ。遍路の道は白い道。答えの出ない白い道。何故だか分かる白い道。成熟への白い道。南無大師遍照金剛。」と書きなぐった。
・・・つづく。