私は、生と死のはざまを普通のまま認識するコツを掴むために、リュックを背負い、暗い内に出発する。町中を通って、五台山の山頂を目指す。
第三十一番竹林寺(本尊・文殊菩薩・おん あらはしゃ のう)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りしたら、珍しく、尼層さんに声をかけられた。彼女は、若くはないのだが、老いに負けないような何かかくしゃくとしたものを示していた。私は、『無理していなきゃぁ、いいんだけど。大きな寺だからなぁ。』と、思う。
それから、私は、いったん山を下り、平坦な道を進み、次の札所に向けて、細い山道を登る。山道の途中で私が休んでいると、一人の青年が汗をかいて登ってきた。まだ十代のように見える。彼に向かって「頑張ってね。」と言ったら、「坊さんもね。」と、小粋に返して、登って行った。
私も、やおら登り始める。よたよたしながら、私が禅師法寺についてみると、先ほどの青年が、ベンチに座って、遠くの海とふもとの小さな家々を見渡していた。私も見渡してみた。そして、この寺の境内の端からの眺めを、いいものだと感じた。
私は、すぐ隣の彼を見て、聞いてみた、
「この景色が好きなのか。」すると彼は、素直な動きで、
「うん。」と答える。細くて控えめだが、力を抜いて耐えている彼の真の強さが、私には痛いほど分かる。彼は、現実を受け入れようとしているのか、現実を一瞬だけ下に見て心の安定をはかろうとしているのか、現実の生活に耐えるためのエネルギーを蓄えているのか。
いずれにしても、何かに耐えながら、現実と自然と寺という空間のはざまで、自分と普遍的な生命を、無意識のうちに感じようといているように、私には見えた。
彼が、景色を見渡している。その風景の中で、海岸線の白い波が、ギリギリのせめぎ合いを繰り返している。さらに、空と海のはざまで、白い波がぎりぎりのせめぎ合いを示している。私の頭の中にも、波の音が蘇るが、私はその音をいやだとは思わなかった。
その青年は、今、目の奥の悲しみが見えるほどに、澄んだ眼をしている。一人で生と死のはざまを見ているのかも知れない。澄んだ感性だけが、命と命のルールを知る。遍路の道は白い波、白い道。・・・・つづく。