昨日、私は、公園にとまったのだが、すぐ近くに五階建ての団地が数棟あって、親子ずれの遊び場になっているような公園だった。私は、周りの家庭的で世俗的な雰囲気から、注意された訳でもないのに、非難されているような感じがして、宗教的感覚が希薄になって行くような気すらしていた。

 誰の邪魔でもないが、ほとんどの人に理解されず、黄色いテントがそこにあるわけだ。無縁の否定感を感じる。もう公園にテントを張るのはやめようと思う。

 そもそも、私が、あるいわ、私たちが、なぜ宗教的感覚に入れるのか?と考えると、宗教的感覚の時は、その感覚の中に、生死を超えている部分があって、深層意識が、そこ(生死を越えている部分)の魅力を感じているからだと思う。

 生死を越えている部分は、心理的物質的御利益の元でもあるし、また、生死を越えている部分は、心が、現実的生活を離れている?、と言うか、心は、宗教的感覚の中で、自分の深層意識が今の現実に負けていないと感じて、その負けてないこと自体を自覚する事で、「善い(いい)」と思えるんだと思う。だから、私は、宗教的感覚に魅力があるのだと感じている。心に肯定感が出てくるだね。狭い現実の孤立的否定感とは真反対だ。

 だから、へぼ坊主のありきたりの道徳の話でも、ある人は納得したりするのだと思う。それはそれでいいんだと思う。ただ、本物かどうかは注意してみなければいけない。南無大師遍照金剛。さて歩き始めますか。・・・つづく。