テントの中で、足が痛いなーと思いながら、光りと永遠の命の事を考えていた。
私は、かつて、ある和尚さんに相談に行って、指導を受け、和尚さんの言われたとおりにしたのだが、私の知識不足のために、うまく出来なくて、何が悪いのか分からないまま、礼拝の形(五体投地)を取って、三・四日だったかなぁ、懺悔し続けたことがある。横になったのは、一日に二時間ぐらいだったと思う。食べ物もほとんど取ってなかった。
二日目ぐらいからは、私の膝が擦り切れ始め、白依が血に染まった。私は、むかし、インドの行者が、石畳の上で、ひざの骨が見えているのに、礼拝していたと言う話を、テレビで見たことがある。それが今は、なんか分かるような気がする。あれは、エネルギー(加持力)が入って止まらなくなったんだと思う。私の場合は、畳の上だからまだ良かった。しかし、どういう訳か、ゲーゲーと、吐く物もないのに吐いた。そして、三日目か四日目だったと思う。とうとうなにも感じなくなって、スカスカのまま、礼拝をし続けるようになった。そして、最後に、手の先からオーラの様な光りが出るようになり、ゴーっという音と共に体も光りを放ち始め、それでも礼拝をしたら、足元から、一瞬なのか?、体が消えた。その後、ドサッと倒れる。
ぎりぎりまで記憶があるから、私としては気を失ったのではないような気がするんだけど、あまりの事に定かではない。問題はその後だった。私の体を気が登ったいたのだが、それが三回にわたって足ものに戻ってゆき、恐怖になった。私は、とんでもない失敗をしたと思った。前世からの徳もすべて無くしてしまったと思った。
奈良の十津川の山の中で、たったひとり、どうしていいか分からなかった。しばらくして、そこを後にし、前から知っているところの和尚さんに相談しに行ったところ、彼としては、救いらしいのだが、これまた、すごいエネルギー(加持力)で私の肉体を精神的に縛ってしまったようだ。ところが、私は、計、二人の和尚さんに相談した訳だけれども、その人たちよりもタフなので、結局、一人になって、岐阜の山寺で、回復を待つことにした。それはそれで大変だった。当時、生きるに生きれず、死ぬに死ねずの心境だったのだが、いつしか、ゆっくり回復していこうという気持ちにだけは、なることが出来た。
今考えて見ると、初めての体験で混乱していたんだと思う。あると思っていたら、なかったと言う事に似ている。あれ?、って感じの凄い奴かな。
もともと、慈愛に感じるはずの光や永遠の命は、魂や神経系(深層意識・潜在意識)が充分に活性化(意識化)されていない時に限って、痛みや恐怖として感じるのだろうと思う。私の場合、活性化が急激過ぎた。
光や永遠の命は、有っても無くても気にならなくなると言うのが、本当のところかもしれない。しかし、それはあると言う事で、当り前の事なんだと思う。だから、難しい。ただ、その人の能力は、色々の形で違ってくると思う。その能力が正しいかどうかは、また別の問題だ。疲れた。もう寝よう。・・・つづく。