朝になって、みんなでお勤めをして、私が部屋に帰ってくると、台風も去り、明るい日差しが畳に射していた。さて、今日も歩こう。出発する。

 私が、林の中の道を通って、海岸沿いの大きな道を数キロほど歩いていると、私の横に車が止まって、中から声をかけられた。若い女性だった。ひたしそうに「おはようございます。」と言われたので、私がびっくりしていると、彼女は、寺からの帰りだと言う。昨日、私を部屋に案内してくれた人だった。

 私は、彼女の車に乗せてもらい、次の札所まで、話をすることになる。彼女が、ズバリ、

「なんか、自分に苦しい事ばかり選んでないですか?。」と言うから、私は、車の窓越しに、遠くの海を見ながら彼女に分かるような答えを探していた。すると、彼女が、

「人生って、もっと楽しいものだと思うんですけど。」と言う。彼女は新婚だと言う。私は、また答えられない。

 時々、お遍路さんに聞く人がいる。

「なぜ歩く。」「苦しいのに。」「悩みがあって苦しいのなら、なおのこと、なぜ歩く。」と。

 車は、海沿いの国道を走っている。今日で三日目の太平洋だ。『青くて、なんかいい。』私は、

『全部受け入れて、全部プラスにするのが、海のような永遠の命だと感じている。再生も消滅も含めて、さみしさも苦しさも悲しさも、永遠の命の動く力によって、魂に本当の肯定感が増して、心が本当の喜びを感じるんだ。』と思う。

 そりゃー、苦しみより、楽がいい。でも、安楽を求める精神が、物質獲得だけに向かう時、行き詰まるか、良きものに犠牲を強いて進んでいくことになる。やがて、いきどおりが増すだろう。その上に主義や価値観を上塗りしてみても、物でない、物質の様なもので、永遠の命にとっては、壁になる。それでも、命のルールはある。心が、本当の喜びを感じた時、この世を、全体、どう見るのかだと思う。歩いて、歩いて。遍路の道は白い道。お釈迦様は、三千世界を見て、考えられたと言う。

 その女性には、[次の札所まで、あと四キロ]という看板のあるところまで、乗せて頂いた。

 私は、札所までの長い坂道を登った。途中で、黒塗りの高級車に乗った宗教家らしき人から、一万円のお布施を受ける。そして、杖を頼りにまた登る。・・・・つづく。