とてもそんなことはありそうにないのだけれども、一人でこのままテントの中で死んだら、私は、五キロ削減した、生ゴミか、などと考えていたら、死の恐怖はないのだけれども、夜中に何度か目が覚めた。ゴミでも目が覚めるのだ。朝は、六時半に起きだした。瞑想をして、テントを片づける。するとどこからか、鳩が数羽ほど飛んできた。

 私は、食パンを食べようと思って手に持っていたので、半分ほどちぎって鳩にあげた。一羽のハトが、パンをくちばしで振り切りながら食べる。振り切るもんだから、パンは余所に飛んでいく。そのパンを、別のハトが、同じように振り切りながら食べる。パンは、どこに飛んでいくか分からない。なので、運のいい鳩の近くに必然的に飛んでいく。パンが飛んできた事に、その鳩が気づくと、食べることが出来る。パンを引っ張りあって食べているという訳ではないようだ。自然は、面白い仕組みになっている、と感心して私は見ていた。鳩は、平和の象徴と言うが、これが平和の仕組み?、なのだろうか。結局、あのパンは、ほとんどのハトの胃袋を満たしたのかも知れない。ところで、私にも、羽があったら、八十八か所を三日で廻れるのにね。さて、出発しますか。

 徳島の駅で托鉢をして、それから一人、国道をテクテク歩く。まだ小さなイチョウの木の街路樹がまっすぐな道を示す。歩いて、歩いて。

 第十八番恩山寺(本尊・薬師如来・おん ころころ せんだり まとうぎ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りした。

 私が、門の荷物のところに戻ってみると、土色の子犬があどけない様子で、荷物のすぐ隣にちょこんと鎮座ましましている。親からはぐれて、泥まみれになって、つぶらな瞳を潤ませていた。そいつが私の目を見ているので、

「おぃよっ。」と、声をかけて、何かあげれる物はないかと、リュックの中を探してみる。が、「食パンがないよぉ。」柿なら、お接待でもらっのがある。それを、小さなかけらにして、子犬の口に持って行く。すると、手間取りながらでも食べてくれる。かわいいもんだ。おじさんはいい人か?。「そっか、そっか。」「・・・お前も一人か、何とか生きていけよ。」 

 私は、リュックを背負い、歩き始めた。すると子犬が、後をついてくる。私は、托鉢をしながら飼えるかなぁ。無理かなぁ。と考えていたら、子犬は寂しそうに、一度だけ首をうなだれる。そして、座り直すと、

「僕、平気だよ。クン。」と、子犬の方が見送ってくれた。私の心は、責任とのバランスで、どこかでホッとしている。飼えば自分の命が惜しくなるだろう。飼えば、旅にぬくもりと楽しみがあるかもしれない。でも、私は、ぬくもりにも楽しみにも慣れていない。南無大師遍照金剛。南無大師遍照金剛。南無大師遍照金剛。慣れて生きたい。歩き続ける。・・つづく。