朝六時に起きて、瞑想をしてテントを畳んで、出発する。十四番札所は近かった。

第十四番常樂寺(本尊・弥勒菩薩・おん ばいたれいや あ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りする。この寺の地面は岩盤だった。ちょっとびっくりする。庭には、小さい子から大きい子までいて、これから学校へいくのだろうか、挨拶をしていた。昔は、お寺で子供をあづかっていることは、よくあった話だ。私は、今でもそういう事があるのかなぁ。?、などと思いながら、もし、自分に親がいなければ、神仏を親と思うしかないかなぁー、と考えていた。お釈迦さんの母親は生まれて七日目で死んで、父親も王様業に忙しかったらしいが、子供だったお釈迦さんの心はどうだったんだろう。埋まっていたのかなぁ。今の私は、おふくろさんをなくして片親だが、両親がいたとしても、心は埋まってないと思う。瞑想によって、曲がりなりにも、神仏や自然法則や普遍的基盤にコンタクトを取っているから、勤めていた寺にやられたなぁ、と思うような目に会っても、持ちこたえているのだと思う。成人にとって、親は、心の中で溶けて行くものなのだろうか。いた方がいい親?、いない方がいい親?、親も子も、せいっぱいだった姿がそこにあるんだけど、・・・・自分を余所においておいて、考えていくと、なんかわかるような気がする。そうとしかできない頭で、それでいいと思って、成り行きはこうなって、それがっ良くても悪くても、そんなことが、この世にはあるんですね。生きながらあの世とも、つなげて考えないと、出口が見つからないのかもしれない。出口を探すために次の札所に向けて歩きますか。

第十五番国分寺(本尊・薬師如来・おん ころころ せんだり まとうぎ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りして、町中を通って、

第十六番観音寺(千手観音・おん ばざら たらま きりく)大師堂(南無大師遍照金剛)にも、お参りして、十七番札所に向かう。そのころのなると、私の気分は慢性化してきた。

 山の中の遍路道に比べて、町の中を歩くと、お遍路をしているのではなくて、何をやっているんだろう、儲かりもしないのに、人のお接待をあてにして、などと、迷いが出てくる。自分の心の中で、お遍路の価値が、生れてくるわけだが、その度合いに違がいがある。私のお遍路の味わいは、哲学として残るだけで、町で落ちてしまうのだろうか。

第十七番井戸寺(本尊・七佛薬師如来・おん ころころ せんだり まとうぎ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)に、昼ごろお参りして、門のところのベンチに腰を下ろして、白い食パンを食べて、空を見上げた。青い空に、大きな寺の屋根があって、魔除けの鬼がわらの大きいのが乗っていた。しばらくポカーンと見上げている。そして、出発する。青だけが記憶に残る。空の色だ。青だ。清々しい青だ。遍路の普遍性の味わいだ。町でも山でも変わりない。

 門のところで、二人の中年の女性に、次の十八番札所の道を聞く。・・・・つづく。