無邪気さは、清浄なものを素直に知る為に必要だと思う。でも、汚れた現実に無邪気に反応したら、強くないと痛い目に会う。そんなことから、道徳も心を支える事が出来なくなっていると思われる。
自然法則などの言葉を使って、何かを説明しても、感覚が付いていかないと、善性は失われてしまう。夏目漱石じゃないけど、「とかくこの世は住みにくい」ってかぁ。そんなこと言ったって、住んじゃっいるんだからしょうがない。清浄さを求めて、清楚な女の子の後をついて行ったら、春を売る美人AV女優だったなんて事になったら、おかしいよね。今はありそうかも。・・・個々人の、人の事情の自由ですけど。ヤレヤレ。
私は、うつむき加減になり、しょんぼりとお茶を飲んでいた。だた、草もち(福もち)は、うまそうに食っていたみたいだった。ちなみに、私はまずいものを食っても、うまそうに食うらしい。なので、時々聞かれる。「これうまいか?。」って。「いや、うまくないよ。」って答える。「じゃぁ、何でそんなうまそうな顔をするの。」・・・そんなこと言われたって、ねぇ。
そういう場面に、お遍路さんが来て、車の中で食べるつもりなのか、柔らかい福もちを買っていかれる。彼らは、
「あら、おいしそうに食べているのねぇ。ひとつ下さい。」なんて言っている。店の人も「うちのはおいしいんですよ。」と言うから面白い。
でも、この現実はいいと思う。つまり、信仰心と商売と精神的御利益と物質的御利益がバランスを保って両立しているように私は思う。
本尊様は、目に見えないところですべてに繋がっていて、お遍路さんのお経を受けて、清々されている。
店のおばちゃんも、歩きのお遍路さんを助けて、少しもうかって清々している。
歩き遍路の私も、修行(自他への聖なる奉仕)をして、お接待お受けて、清々している。
車のお遍路さんも、好きなものを食べながらでも、歩き遍路の姿を見て、気持ちを謙虚にして、清々している。
みんなが、それぞれの都合と働きを抱えながら、信仰の国[お四国]の中で、見えないところで繋がりながら、清々、清々と動いているように見える。法輪寺の法輪が廻って、お遍路さんの魂が育って行く。道の徳。道徳。
私は無邪気さを取り戻すために歩き始めた。
だけど、私の草もちはちょっと硬かったように思うけど・・・。触れない方がいいか。たとえ古かったとしても御利益ですから。・・・つづく。