私の様に、どうでもいいけどまともに行きたい人間にとって、目が悪いというのは、不便だけど、都合がよくて、特に女性の場合は、紗と言うか、透明な靄がかかった様な感じで、それなりに綺麗に見えてる。視力は0.7だと医者では言われたが、気分と心眼の具合なのか、良く見えたり見えなかったりするように思う。それで、オレンジ色のエプロンの女性に近づいたら、六十代前かな。そういうことだった。彼女は、
「ここに入って食べて行かんね。みんなにお接待してるんだから。」と言う。私は、礼も言わずに、言われるままに丸椅子の席に着いた。彼女が、
「この寺は、落ち着く寺なのよ。」って言いながら、ふかしたサツマイモと草もちとお茶を出してくれた。もちろんタダである。お四国のお接待とは、ねぎらいをの意味も加味しながらの布施に近いものなのだ。人が傷ついて、物事が分かりにくくなっているときに、掛け値なしの「おかげさま」を知る事なんだろうと思う。ただ、よくお接待をあてにしている人がいるけど、ダメだろうけどね。そのへんが、本物のところなんだろうけど、人間の心は素早いから、いろいろ思いを巡らせる人もいると思う。悩むんなら、損得じゃなくてまっすぐに悩みたいのも、事実だ。彼女が、
「ここに店を出して働くようになってから、色々分かるようになったのよ。」と言う。私は、相槌がてらに、
[何をですか。?」と聞くと、
「若いころの自分の心のつまらなさに気付いたのよ。私はね、若いころは、周りの人が色々世話をしてくれていて、コーヒーさえ、自分で入れた事がなかったの。それでね、自分はとても偉い人間だと思っていたのよ。」私は、今どき、そう言う人がいるのかなぁ、と思いながらも、
「そうなんですかぁ。でもそれだけの事をされてたんじゃないですか?。」と、慰めた。すると彼女は、
「そりゃー、会社的なことも少しはしていたけど、困った人を見ても、お年寄りを見ても、あんなもんなんだなぁーって、思っていたのよ。風景みたいにね。自分の都合のいいように、正当化できるように、ものを見ていたのよ。もちろん、正しい時もそれなりに多くあったけど、過ぎてしまえばつまらない話よ。色々あって分かるようになったのよ。」
今、この寺に店を出して、真面目に長く生きて来られたお年寄りの苦しみ、辛さ、困っている人のどこにも持っていけない痛み、を見ていると、それが分からなかった自分を情けなく思う、と言う。
私は、彼女の口を見ながらその話を聞いた。その時彼女の口には、痛そうなな傷が二・三か所あった。私は、この傷が言わせているのかなぁーとも思った。だれもが救われたいから。
どうしたのかなー、素直に聞いてない。痛みを無視するのは、その痛みを受けきれないから?。心が弱いから?。それとも傷つき過ぎて見たくないから?。私に、無邪気さがなくなっていたと思う。だから、今日の午前中の歩きで、喜ばせてもらっていたんだと密かに思う。今朝の歩きは現実だし、私は、目が悪い訳だから、自分の都合のいいように見ても、許してくれるよね、お大師さん、まだ出来てないよー。南無大師遍照金剛。・・・・つづく。