それから四番札所までは、これまでの寺の間隔から比べれば、私には、遠い感じがあった。本当は、一番札所で歩き遍路用の地図を買えばよかったのだが、気分は着の身着のまま、計画なしの、思いつきの用意で、出てきているから、大まかな地図しかもっていないのが、今の私の姿だ。「運を天に任せて歩くしか、救われない」と思っている節がある。何かのせいにして、それでも信じたいのだろうと思う。と言うか、信じてるところがあるから、諦めながら、信じようとしているのかも知れない。いやはや、導く方にしてみれば、面倒くさい話だ。
やっぱりと言えば分かるかもしれないが、そんなんだから、四つ角の信号機のところで、道が分からなくなってしまう。お四国の道には、親切にも、お遍路さん用の道しるべがあちこちについていて、それを頼りに歩けば、それなりに事は足りるのだが、私みたいに見落としてしまう人もいる。仕方がないので、信号待ちの通りすがりの運転手さんに、車の窓を開けてもらって、私は、図々しくも道を聞く。あたりには、他に人がいなかったのだ。そうしたら、本当に真剣に思い出すようにして、教えてくださった。なぜか私は、
『むかし、日本は、みんな親切だったぁ。』と思った。
少し気が緩んできたせいなのか、四番札所へ向かっている途中の坂道で、疲れてしまって、座り込み休んでいたら、そのまま少し寝てしまった。そして、目が覚める。悲しみに対して、今までにも増して、開き直ったような感じがあった。私の人生で、何もないただの道端で、座り込んで寝たことはない。・・ただ中学生の時に眠くて、自転車で田んぼに落ちたことはある。このときは、股間のファスナーが開いた。どうでもいいか。
第四番大日寺(本尊・大日如来・おん あびらうんけん ばざらだと ばん)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りする。初日はお寺が近いこともあって、次から次へとお参りが出来た。・・つづく。