子どもを信じていない親なんていない | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

子どもが思う存分遊ぶ(ゲーム含む)ことで、知的好奇心が育ち、それが勉強にも繋がっていく

「子どもを信じる」

 

ってよく言うんやけどさ。

 

 

 

これって、

 

「子どもを信じている親」

 

と、

 

「子どもを信じていない親」

 

がいるんじゃなくて、

 

「それぞれ違うことを信じている親」

 

がいるのよ。

 

 

 

だから、

 

「私は、子どものことを信じられていない」

 

っていうは、間違いだし、あり得ないのね。

 

 

 

みんな、何かしら子どもに対して信じてるの。

 

 

 

「この子は素晴らしい存在だ」

 

「この子はつまらない」

 

「この子はほんとにできない」

 

「この子は社会の預かりものだ」

 

「この子は人に迷惑ばかりかける」

 

「この子はすぐに問題を起こす」

 

「この子は気配りがきいて、優しい」

 

「この子は学習障害だ」

 

「この子は他の人と同じことができない」

 

「この子は天才だ」

 

「子どもに育ててもらってる」

 

「子どもを育ててる」

 

「この子はちゃんと考えてる」

 

などなど・・・

 

 

 

「信じてる/信じてない」

 

じゃなくて、

 

「Aを信じてる/Bを信じてる」

 

ね。

 

 

 

やから、

 

「私は、子どもを信じられていない」

 

って思うと、

 

「自分が子どもに対して信じていること」

 

が見えなくなります。

 

 

 

「子どもを信じられるようになる」

 

っていうのは、

 

「子どもの能力ややる気を下げるような信念」

 

 

「子どもの能力ややる気を上げるような信念」

 

に変えていくことを言います。

 

 

 

例えば、

 

「この子は、ほっとくと全く勉強をしない」

 

って信じていたとします。

 

 

 

「ほっといたら全く勉強をしない」

 

のだから、まずほっとかんよね。

 

 

 

子どもに声をかけます。

 

「そろそろ勉強をしたら?」

 

「勉強やりなさいよ」

 

表現は柔らかいけど、勉強をさせようとしてて、

 

『勉強の強要』

 

が始まります。

 

 

 

勉強は強要されるとモチベーションが著しく下がるので、

 

「はぁ~、言われたからやる気なくなった~」

(この言葉は、だいたい正しい)

 

とか何とか言って、今までも一向に勉強に手を付ける気配が無かったのに、そう言って勉強をやりません。

 

 

 

この時、親は、信念を強化します。

 

やっぱりこの子は、ほっとくと全く勉強をしない」

 

って。

 

 

 

「勉強しなさいよ~」

 

は、

 

「子どもに勉強の注意喚起をする」

 

っていう意味もあるんやけど、実は、

 

「子どもが勉強をしないことの確認」

 

もあるのね。

 

 

 

だってさ、

 

「勉強しなさいよ~」

 

って、

 

「子どもが勉強をしていない時」

 

にしか言わんでしょ??

 

 

 

目の前で勉強している子に、

 

「勉強しなさいよ~」

 

は言わへんやんか。

 

 

 

「いやいや、おかん、私の姿が見えへんのかいな」

 

って言われちゃうわけよ。

 

 

 

やから、

 

「勉強しなさいよ~」

 

って言ってる時点で、子どもが勉強をしていない姿を確認してるはずなのね。

 

 

 

何のために確認しているのか?

 

「ほら、やっぱりね」

 

をやりたいから。

 

 

 

自分が

 

「この子は、ほっとくと全く勉強をしない」

 

っていうのを信じてるんやけど、この信じていることは、

 

なるべく現実であってほしい

なるべく正しいことであってほしい

 

って思ってたりするのね。

 

 

 

もちろん、表面的には、

 

「子どもには勉強をしてほしい」

 

って思っているのね。

 

 

 

でも、心のどこかで1mmでも、

 

「この子は、ほっとくと勉強をしない」

 

って信じていると、潜在意識的には、こっちを確認しに行く。

 

 

 

勉強していない子どもを見て、

 

「ほら、やっぱりね」

 

って思いたいし、子どもが勉強をしているなら、

 

「勉強しなさいよ~」

 

って声をかけて、子どものモチベーションを下げて、勉強をさせないようにしてから、

 

「ほら、やっぱりね」

 

ってやりたいわけです。

 

 

 

「この子は、ほっとくと全く勉強をしない」

 

って思っていると、とにかく、その信念を強化しに行きます。

 

 

 

なんでか。

 

 

 

「自分も、全く勉強をしてこなかったから」

 

です。

 

 

 

もしくは、

 

「自分は勉強をしてきたけど、この子は勉強をしない」

 

子どもを見下しているからです。

 

 

 

子どもを見下している場合、子どもに勉強されたら困るわけよね。

 

子どもには勉強をしないでもらいたい。

 

子どもにはアホであってほしい。

 

下剋上されたくないわけです。

 

 

 

やから、見下して、

 

「お前は、勉強をしないやつなんだから、勉強なんてするなよ、無駄やから」

 

って意味をこめて、

 

「勉強やりなさいよ~」

 

って声をかけるんです。

 

 

 

 

 

 

 

じゃあ、自分がこの信念を持ってたら?

 

まずは、

 

「気付く」

 

です。

 

 

 

「あ!『うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん』って信じてたわ!」

 

って気付くこと。

 

 

 

自分の行動や発言を振り返って、

 

「たしかに、『うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん』って信じてるからこその行動や言葉を使ってたわ・・・」

 

って気付く。

 

 

 

自分の意識を変えるのは、そこから始まります。

 

 

 

気付いたら「疑う」

 

 

 

「『うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん』って信じてたけど、これ、ほんまなんかな?」

 

って疑い始めてみます。

 

 

 

「うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん」

 

みたいに何かを信じてる時って、

 

「それは完全に正しいこと」

 

「それは世界の理」

 

「それは宇宙の真理」

 

と言わんばかりに、完璧に信じ込んでいます。

 

 

 

だから、「疑う」心を持って、その信念をぶち壊していく必要があるんです。

 

で、

 

「ほら、やっぱりね」

 

をやめる。

 

 

 

「あれ!よーーーーく見たら、ほっといても何かしら学んでるんやな」

 

っていう証拠をどれだけこじつけでもいいから、見つけ続ける。

 

 

 

声だってかける。

 

「これ、自分で調べたんや!」

 

「おー、勉強してるやん」

 

「色々知ってんなぁ」

 

 

 

「あなたはほっといても自分から勉強をする子だよ」

 

って意味を込めて声をかけるんじゃないです。

 

 

 

「何を信じるか」

 

が大事なので、子どもに暗示を吹き込むみたいなことをしても、

 

「どうして、その暗示が必要なのか?」

 

を考えたら、

 

「うちの子は、ほっとくと全く勉強をしないから、暗示でもかけてやろうかと思って」

 

って、結局、「全く勉強をしない」を信じてるやん、って話になる。

 

 

 

「うちの子は、ほっといても勉強してる」

 

っていうのを信じてるんやったら、

 

「すでに、それは現実化してる」

 

「すでに、それは現実化し始めてる」

 

はずなんよね。

 

 

 

「うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん」

 

って信じてた時には、

 

「ほんまは、すでに、勉強をしているシーン(親がイメージしてるのとは違う勉強の仕方の確率高い)は目の前にあった」

 

はずなのね。

 

 

 

ドンピシャで勉強してなくても、それに繋がる何か、みたいなのはあるはずなのね。

 

映画や漫画の伏線みたいに張られてるの。

 

でも、

 

「うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん」

 

って信じてると、その伏線が全く見えなくなります。

 

 

 

なぜなら、

 

「ほら、やっぱり」

 

っていう方の現実や、伏線ばっかり回収して、そっちのストーリーを進めていってるから、です。

 

 

 

「うちの子は、ほっといても自分で勉強してる」

 

ってしたいんなら、そういう伏線を回収していかないといけないんです。

 

そういう現実ばっかり見ようとしてみる。

 

 

 

今まで、

 

「うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん」

 

の方の現実ばっかり見てきたから、

 

「うちの子は、ほっといても自分から勉強してる」

 

の方の現実には目が慣れてないから、それを慣らしていかんとあかん。

 

 

 

信念は、

 

「頭の中、心の中だけで変える」

 

んじゃなくて、

 

「見えているもの」(の解釈)

 

「体験するもの」(の解釈)

 

も変えていかないといけない。

 

 

 

例えば、ゲームをしている子どもを見て、

 

「ほら、やっぱり勉強なんてしない」

 

って解釈してたのを

 

「ゲームからも学んでる」

 

「ゲームは勉強と勉強の合間の休憩なのね」

 

みたいな感じに解釈を変えたりする。

 

 

 

どう解釈するのかは自由で、その解釈が作り上げる信念があって、その信念が現実を作ってる。

 

やから、信じてることを変えたかったら、

 

「頭の中、心の中で信じていることを変える」

 

だけじゃなくて、

 

「見えている現実や体験の解釈も変える」

 

ってことが大事なわけね。

 

 

 

そしたら、少しずつ伏線が回収されていって、今まで信じてたのとは違う現実が現れる・・・かもしれません。

 

 

 

 

 

 

★メルマガ登録はこちら★

「子どもが自分から勉強を始める親のコミュニケーション」