「子どもを信じる」
ってよく言うんやけどさ。
これって、
「子どもを信じている親」
と、
「子どもを信じていない親」
がいるんじゃなくて、
「それぞれ違うことを信じている親」
がいるのよ。
だから、
「私は、子どものことを信じられていない」
っていうは、間違いだし、あり得ないのね。
みんな、何かしら子どもに対して信じてるの。
「この子は素晴らしい存在だ」
「この子はつまらない」
「この子はほんとにできない」
「この子は社会の預かりものだ」
「この子は人に迷惑ばかりかける」
「この子はすぐに問題を起こす」
「この子は気配りがきいて、優しい」
「この子は学習障害だ」
「この子は他の人と同じことができない」
「この子は天才だ」
「子どもに育ててもらってる」
「子どもを育ててる」
「この子はちゃんと考えてる」
などなど・・・
「信じてる/信じてない」
じゃなくて、
「Aを信じてる/Bを信じてる」
ね。
やから、
「私は、子どもを信じられていない」
って思うと、
「自分が子どもに対して信じていること」
が見えなくなります。
「子どもを信じられるようになる」
っていうのは、
「子どもの能力ややる気を下げるような信念」
を
「子どもの能力ややる気を上げるような信念」
に変えていくことを言います。
例えば、
「この子は、ほっとくと全く勉強をしない」
って信じていたとします。
「ほっといたら全く勉強をしない」
のだから、まずほっとかんよね。
子どもに声をかけます。
「そろそろ勉強をしたら?」
「勉強やりなさいよ」
表現は柔らかいけど、勉強をさせようとしてて、
『勉強の強要』
が始まります。
勉強は強要されるとモチベーションが著しく下がるので、
「はぁ~、言われたからやる気なくなった~」
(この言葉は、だいたい正しい)
とか何とか言って、今までも一向に勉強に手を付ける気配が無かったのに、そう言って勉強をやりません。
この時、親は、信念を強化します。
「やっぱりこの子は、ほっとくと全く勉強をしない」
って。
「勉強しなさいよ~」
は、
「子どもに勉強の注意喚起をする」
っていう意味もあるんやけど、実は、
「子どもが勉強をしないことの確認」
もあるのね。
だってさ、
「勉強しなさいよ~」
って、
「子どもが勉強をしていない時」
にしか言わんでしょ??
目の前で勉強している子に、
「勉強しなさいよ~」
は言わへんやんか。
「いやいや、おかん、私の姿が見えへんのかいな」
って言われちゃうわけよ。
やから、
「勉強しなさいよ~」
って言ってる時点で、子どもが勉強をしていない姿を確認してるはずなのね。
何のために確認しているのか?
「ほら、やっぱりね」
をやりたいから。
自分が
「この子は、ほっとくと全く勉強をしない」
っていうのを信じてるんやけど、この信じていることは、
なるべく現実であってほしい
なるべく正しいことであってほしい
って思ってたりするのね。
もちろん、表面的には、
「子どもには勉強をしてほしい」
って思っているのね。
でも、心のどこかで1mmでも、
「この子は、ほっとくと勉強をしない」
って信じていると、潜在意識的には、こっちを確認しに行く。
勉強していない子どもを見て、
「ほら、やっぱりね」
って思いたいし、子どもが勉強をしているなら、
「勉強しなさいよ~」
って声をかけて、子どものモチベーションを下げて、勉強をさせないようにしてから、
「ほら、やっぱりね」
ってやりたいわけです。
「この子は、ほっとくと全く勉強をしない」
って思っていると、とにかく、その信念を強化しに行きます。
なんでか。
「自分も、全く勉強をしてこなかったから」
です。
もしくは、
「自分は勉強をしてきたけど、この子は勉強をしない」
と子どもを見下しているからです。
子どもを見下している場合、子どもに勉強されたら困るわけよね。
子どもには勉強をしないでもらいたい。
子どもにはアホであってほしい。
下剋上されたくないわけです。
やから、見下して、
「お前は、勉強をしないやつなんだから、勉強なんてするなよ、無駄やから」
って意味をこめて、
「勉強やりなさいよ~」
って声をかけるんです。
じゃあ、自分がこの信念を持ってたら?
まずは、
「気付く」
です。
「あ!『うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん』って信じてたわ!」
って気付くこと。
自分の行動や発言を振り返って、
「たしかに、『うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん』って信じてるからこその行動や言葉を使ってたわ・・・」
って気付く。
自分の意識を変えるのは、そこから始まります。
気付いたら「疑う」
「『うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん』って信じてたけど、これ、ほんまなんかな?」
って疑い始めてみます。
「うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん」
みたいに何かを信じてる時って、
「それは完全に正しいこと」
「それは世界の理」
「それは宇宙の真理」
と言わんばかりに、完璧に信じ込んでいます。
だから、「疑う」心を持って、その信念をぶち壊していく必要があるんです。
で、
「ほら、やっぱりね」
をやめる。
「あれ!よーーーーく見たら、ほっといても何かしら学んでるんやな」
っていう証拠をどれだけこじつけでもいいから、見つけ続ける。
声だってかける。
「これ、自分で調べたんや!」
「おー、勉強してるやん」
「色々知ってんなぁ」
「あなたはほっといても自分から勉強をする子だよ」
って意味を込めて声をかけるんじゃないです。
「何を信じるか」
が大事なので、子どもに暗示を吹き込むみたいなことをしても、
「どうして、その暗示が必要なのか?」
を考えたら、
「うちの子は、ほっとくと全く勉強をしないから、暗示でもかけてやろうかと思って」
って、結局、「全く勉強をしない」を信じてるやん、って話になる。
「うちの子は、ほっといても勉強してる」
っていうのを信じてるんやったら、
「すでに、それは現実化してる」
「すでに、それは現実化し始めてる」
はずなんよね。
「うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん」
って信じてた時には、
「ほんまは、すでに、勉強をしているシーン(親がイメージしてるのとは違う勉強の仕方の確率高い)は目の前にあった」
はずなのね。
ドンピシャで勉強してなくても、それに繋がる何か、みたいなのはあるはずなのね。
映画や漫画の伏線みたいに張られてるの。
でも、
「うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん」
って信じてると、その伏線が全く見えなくなります。
なぜなら、
「ほら、やっぱり」
っていう方の現実や、伏線ばっかり回収して、そっちのストーリーを進めていってるから、です。
「うちの子は、ほっといても自分で勉強してる」
ってしたいんなら、そういう伏線を回収していかないといけないんです。
そういう現実ばっかり見ようとしてみる。
今まで、
「うちの子は、ほっとくと全く勉強せーへん」
の方の現実ばっかり見てきたから、
「うちの子は、ほっといても自分から勉強してる」
の方の現実には目が慣れてないから、それを慣らしていかんとあかん。
信念は、
「頭の中、心の中だけで変える」
んじゃなくて、
「見えているもの」(の解釈)
「体験するもの」(の解釈)
も変えていかないといけない。
例えば、ゲームをしている子どもを見て、
「ほら、やっぱり勉強なんてしない」
って解釈してたのを
「ゲームからも学んでる」
「ゲームは勉強と勉強の合間の休憩なのね」
みたいな感じに解釈を変えたりする。
どう解釈するのかは自由で、その解釈が作り上げる信念があって、その信念が現実を作ってる。
やから、信じてることを変えたかったら、
「頭の中、心の中で信じていることを変える」
だけじゃなくて、
「見えている現実や体験の解釈も変える」
ってことが大事なわけね。
そしたら、少しずつ伏線が回収されていって、今まで信じてたのとは違う現実が現れる・・・かもしれません。
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