なんで、夏休みの宿題やるん? | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

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最近、数学の問題を解くのにハマってます。

 
特に図形がおもしろい。
 
さっき解いてたのがコレ。
 
 
 
 
 
自力で解きたい人は、解いてから先を読んでな。
 
最後に答えあります。
 
中3以上の知識があれば解けます。
 
 
 
 
 
図形の何がおもしろいって、
 
「その補助線、いったいどっから持ってきたん?」
 
です。
 
 
 
補助線は、与えられた図形”内”に引く場合もあれば、図形”外”に引いて、そもそもの図形を拡張する場合もある。
 
図形内の補助線は、見えてる範囲にあるけど、図形外の補助線は見えてない範囲にある。
 
 
 
見えてる範囲に見えていなかった線を見えるようにする。
 
見えてない範囲に見えていなかった線を見えるようにする。
 
 
 
それが補助線。
 
図形外に引く補助線は、もはや補助ではないのではないか、とも思いつつ。
 
 
 
補助線を引きながら、見えないものを見えるようにしていくのが楽しい。
 
逆に言えば、見えてるものだけで物を考えない、ということでもある。
 
 
 
子どもなんかもそうやと思うんよね。
 
子どもが目の前でやってること、言ってること。
 
そこだけに囚われてると、答えは見えてこない。
 
見えない部分を見えるようにしながら、子どもに関わっていくと子どもと信頼関係が作れたり、子どもの成長を促すような関わりができたりする。
 
 
 
「数学なんて、どうせ社会に出ても使わない」
 
「数学をやる意味なんてない」
 
「数学をやる意味が分からない」
 
ってよく子どもらも大人も言うんやけど、意味は数学それ自体にあるんじゃなくて、自分が作り出すものやと思ってる。
 
 
 
数学自体は無意味やけど、僕らの解釈で、数学に無限の意味を持たせられる。
 
使おうとしなかったら使えないし、使おうとしてみるといくらでも使い方が見つかる。
 
 
 
そういう意味では、学びは、学んだことを何にも使おうとしなければ、ただの娯楽になる。
 
でも、活かそうと思えば、何にでも活かせるはずなので、それは
 
「活学」
 
になる。
 
 
 
娯楽としての学問もいいけど、せっかく学ぶんなら活学がいいよね。
 
んで、さっきも言ったけど、勘違いしちゃいけないのが、
 
「これは娯楽、これは活学」
 
って分野ごとに分かれてるんじゃなくて、自分の解釈次第で、どんな学問も娯楽にもなるし、活学にもなる。
 
 
 
僕らは、子どもに勉強することを要求する以上、活学を教えていかんとあかん。
 
つまり、
 
「今、学んでいることは、何にどう活かせるのか」
 
を教えていったり、一緒に考えたりする。
 
 
 
蓄えた知識は、使わなければメタボになるだけ。
 
知識を使うとエネルギーとして消費され、何か結果が生まれる。
 
 
 
今の学校では、活学を教えてくれるのかしら。
 
僕が子どもの頃は教えてもらえんかったけど・・・
 
 
 
活学は、
 
「工学を学べば、物作りに使える」
 
という具体的なものから、さっき僕が書いたみたいに、
 
「子育ては、図形に補助線を引くように、見えないものを見えるようにするものだよね」
 
というような抽象的なものまで様々。
 
 
 
抽象的なイメージに活かしていくと、それは子どもの見方、関わり方に影響を与え、子どもとの関係性を変えていってくれる。
 
そういう意味で、活きた学問なのではないかと言える(そう言えるかどうかも、自分で決めたらいいことやで)。
 
 
 
 
 
 
やから、ほんまに、夏休みの宿題とかもさ、
 
「宿題しなさい!」
 
なんて愚の骨頂でしかないと思うのね。
 
 
 
そう言われてる子どもは、たとえちゃんと宿題したとしても、
 
「宿題をこなした」
 
って事実が残るだけで、子どもの中には何も残らんのとちゃうかな、と思う。
 
 
 
宿題するように促してる暇があったら、その問題の1つでも活学になるように、一緒に考えたり、活学の視点を教えてあげた方がええんとちゃうかな、って思う。
 
昨日の「なんで、学校行くん?」もそうやけど、
 
「なんで、宿題するん?」
 
 
「なんで、その問題解くん?」
 
もある。
 
 
 
いちいち考えるのがめんどくさいと思うかもしれんけど、ここをしっかり考えていくことは主体性に繋がっていく。
 
ここを考えさせないようにしてきたのが、従来の・・・僕らや、僕らの親世代、僕らの祖父母世代が受けてきた教育やないんかな、と思う。
 
つべこべ言わずにやりなさい、と。
 
 
 
活学を教えられないなら、子どもによって、
 
「なんで、数学なんてやらなあかんの?」
 
って簡単に看破されてしまう。
 
 
 
そこに目的や理由が無い以上、もはや、強権を行使して、子どもを服従させにかかるしかない。
 
もちろん、この時にも、
 
「なんで、そんなに子どもに宿題をさせたいの?」
 
っていうのは付きまとう。
 
 
 
つまり、子どもに宿題させようとしたり、学校に行かせようとしてる時点で、大人側もその目的や理由を持っていないことは明白だと思うのよ。
 
もし、持ってるなら服従させようとせずに、自分の言葉で、子どもに伝えようとしてるはずやからね。
 
 
 
僕らは、
 
「いかにして、子どもに宿題をさせるか」
 
じゃなくて、
 
「どうして、宿題をするのか?を子どもと考える」
 
っていう方がずっと活学に近いと思うんよね。
 
 
 
「どうして、宿題をしなければならないのか?」
 
は宿題をする前提で考えちゃってるから愚問で、良問は、
 
「どうして、宿題をするのか?」
 
っていう宿題する前提じゃない方ね。
 
 
 
宿題する前提で考えたって、目的や理由なんて見つからないよ。
 
仮に見つかっても、それは偽りの目的であり、理由です。
 
だから、目的や理由を考える時は、
 
「宿題をやるか、やらないかを選択できる」
 
っていう前提で考える必要がある。
 
 
 
それはなんでかと言えば、
 
「その選択をするために考える」
 
っていう側面もあるから、です。
 
 
 
んで、考えた末に、やる目的や理由を見つけて、
 
「やる!」
 
ってなったら、もうやるよね、それは。
 
 
 
 
 
 
 
さて、そろそろ、冒頭の問題の解答を載せておきます。
 
問題
 
解答
 
 
 
こんな感じに、図形外に補助線引いて、図形を拡張する問題が今楽しい。
 
「あ〜!その視点は無かったわ〜!」
 
ってなるのが楽しい笑
 
 
 
ちなみに、この問題も、別解がいくつもあります。
 
良かったら考えてみてね。