信心ってどんな心?」

もうすぐ春が来ます。春が好きな人はどんな人でしょうか?心がきれいな人のような気がします。それは、『四季の歌』という歌に「春を愛する人は心清き人♪」という歌詞があるからです。『四季の歌』は、「春を愛する人は心清き人♪」、「夏を愛する人は心強き人♪」、「秋を愛する人は心深き人♪」、「冬を愛する人は心広き人♪」と歌います。

浄土真宗は、信心が正しい因となる教えだといわれていますが、信心を表すと、信心は春を愛する人の清い心、夏を愛する人の強い心、秋を愛する人の深い心、冬を愛する人の広い心のどれにも当てはまります。

信心は、はすの華にたとえられるくらい清らかな心ですし、ダイヤモンドにたとえられるくらい強くて固い心です。そして信心は海にたとえられるくらい深くて、広いのです。なぜそんなにすべてが備わっているかというと、信心は、阿弥陀仏の心で、お釈迦さまが私達に教えてくれたものだからです。

また、信心は、やさしい心でもあります。なぜなら、阿弥陀仏が私達をいつくしみ悲しむ心は、苦しんでいる子供を助けようとする母のような心であるからです。お釈迦さまは、阿弥陀仏の信心を教えることを生きる意味とされました。


「お釈迦さまが教えてくれたやさしい心」

「本当の強さはやさしさだよ」と母から言われたことがあります。あれは、幼稚園でけんかをして注意されたときのことでした。「やさしくたって強くなれない」と子供心に思いましたが、ある人のことをお話しすると、母の言っていたことが少し分かる気がします。

アナンさんは、いつも仏のお話を聞いていて、いちばん仏のお話を聞いている人です。今日もいつものように、お話を聞いていると、話をしている人がいつもより、輝いて見えて、今日は何かあるぞと思いました。
光り輝くすがた ブッダ


そして思い切って、「お釈迦さま、今日はどうしてそのように不思議な光で輝いておられるのですか」そうです。今日お話をするのは、お釈迦さまのことです。お釈迦さまは、「よい質問だね。アナン。やさしい心で正しく見るときはじめて知ることができる質問だ。阿弥陀仏という仏は、大きな心ですべての人々のことを考えている。それはすべての人を救うためだ。阿弥陀仏の教えがあることを知らせに私は生れてきたのだ。」と答えられました。

生れて来られた理由をお釈迦さまが語られるようになられたわけを知るには、お釈迦さまの若いときのことをお話しないといけません。

お釈迦さまは、シャカ族の王子シッダルタとして生れられました。シッダルタ王子は、立派に成長され、17歳で、美しくて優しく、頭の良いヤソーダラ姫とご結婚されました。周りの人がだれでもうらやましがるほどのご結婚だったのです。やがてお二人の間には、男の子が生まれ、幸せいっぱいと思ったら、シッダルタ王子は難しい顔をしています。「どうしたのですか?」とヤソーダラ姫がたずねても、「なんでもないよ」と言われて、自分の部屋にもどられました。次の日、子供の名前が発表されました。「ラーフラ」(さまたげとなるもの)という名です。だれもが、どうしてそんな名前にしたんだと思いました。シッダルタ王子は、だれにも言いませんでしたが、10年後王子の位を捨てて、お城をぬけるときに、息子への愛情がさまたげとなることを予想していたのです。息子には、どうしても他の人よりやさしくしてしまうし、すべての人を救う教えを知らせるためには、親子でなくなってもしょうがないと思いお城をぬけたのです。ラーフラは、小さい頃にお父さんがいなくなったことは知っていましたが、お父さんがどこに行ったかを知りませんでした。ですがうわさから、お釈迦さまがお父さんであることを知り、お釈迦さまの弟子となり、よく学んだのでした。みなさんは、お釈迦さまがしたことをひどいことだと思うかもしれません。「子供をすてる親なんて最低だ」と考えているかもしれません。ですが、自分の幸せを願う思いが強すぎて、他の子供のことを考えないこともあります。せめて自分の子供だけはと、他の子供より自分の子供にやさしくしたりしているのかもしれません。またお父さんやお母さんにやさしくしてあげようと思って病気のお世話をしていても、病気がよくならないときもあります。そんな時、人はやさしくなんてないんじゃないかと悲しくなるかもしれません。本当のやさしさっていったいなんなのでしょうか!?

ここで思い出してみてください。お釈迦さまは、アナンさんの質問に「やさしい心で正しく見るとき、はじめて知ることができる質問だ」と言われました。やさしい心で正しく見ると、やさしさをもてない私がいることを知ります。そんな私を悲しむ阿弥陀仏の心に気がつくと、やさしさをもてなかった私が、本当のやさしさに目覚めるのです。他の命も自分の命も同じように大切だと見て、平等へと歩き出します。

今月は、お釈迦さまがなくなられた月です。お釈迦さまはなくなる前に、悲しんでいる人たちに、「自らをともしび(ろうそくのあかりのようなもの)とし、法をともしびとせよ」あかりをともすように、自分の心の暗い中に閉じこもらず、他へ目を開き、仏の教えを聞きなさいというような意味です。お釈迦さまが教えてくれた阿弥陀仏の教えは、やさしさが失われている今も照らしてくれています。


恵まれて恵むことなし

sinnsyuは、ギブ&テイクということを、恩をうけたら返すという意味でとらえています。ですが、真宗では仏からの恵み(回向)はあっても、私達から恵みを返すことはできないとされています。それは、何かいいことをしようと思うとき、必ずといっていいほど見返りを求めてしまったりするなど、私達が何かしようとしたときは不純なものが紛れ込んでしまうからです。このような不純な行いを「雑行」といって、法然は南無阿弥陀仏という恵みが「雑行」に対するものとしました。

親鸞は南無阿弥陀仏という恵みは自力ではないから自分の恵みではないという独自な考え方を展開しました。法然の見方ではまだ、自力の南無阿弥陀仏は私達の恵みといえる可能性があり、そのことまで考慮して親鸞は独自の考え方を展開したといえないでしょうか?

今回は教行信証行巻の「回向不回向」について書いてみました。

 最近、子供のいじめ自殺という事件が起きています。そんななかどうすれば命が大切にできるか考えて、1月に大阪のお寺で、子供さんに話したものをのせてみました。

 

()みなさんのような小学生が、自分(じぶん)大切(たいせつ)(いのち)自分(じぶん)()でうばうということがあります。(いま)小学生(しょうがくせい)にもおきている「いじめ自殺(じさつ)」という事件(じけん)です。この「いじめ自殺(じさつ)」という事件(じけん)(いのち)大切(たいせつ)さが()からないから()こるのではないでしょうか。いくら自分(じぶん)(いのち)大切(たいせつ)にしていても、他人(たにん)(いのち)大切(たいせつ)にしないのなら、(いのち)大切(たいせつ)にすることにはならないのです。いじめを()自殺(じさつ)した(にん)(なか)には、「まだ()きたかった」と()いている(ひと)もいます。いじめで(くる)しんでいた(ひと)(こえ)()いていたら、自殺(じさつ)しなかったのかもしれません。(わたし)たちが、テレビを()(わら)ったり、マンガを()んだりして(たの)しんでいるときに、だれかがいじめられて()いていたり、()のうと(かんが)えているのです。自分(じぶん)だけ(たの)しく、自分(じぶん)(たの)しさのためなら()のだれかが(くる)しんでもいいのでしょうか。自分(じぶん)()きることだけ(かんが)えて、自分(じぶん)()らない(ひと)()(かんが)えないし、また()っている人でもまるでその(ひと)()きていないように無視(むし)したりする。「自分(じぶん)他人(たにん)」という()(かた)や、「(せい)()」というわけ(かた)()るのは(らく)ですが、ときにまちがった見方(みかた)をして、だれかを(くる)しめてしまうことがあるのです。

 (こん)(げつ)は、(あたら)しい(ねん)のはじまりの(つき)ですが、親鸞(しんらん)さまのなくなられた(つき)でもあります。親鸞(しんらん)さまは、まちがった()(かた)をしてしまう(わたし)たちに、()ってくれたことがあります。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)がはなたれる(ひかり)はすべてのものを()らし、その(ひかり)にあたったものは、それぞれわるい見方(みかた)からからはなれるので、(すべ)ての(いのち)(おな)じように大切(たいせつ)にする阿弥陀仏(あみだぶつ)をたよりなさい」

 たくさんの(いのち)(うしな)われている(いま)(すべ)ての(いのち)(おな)じように大切(たいせつ)にする阿弥陀仏(あみだぶつ)(おし)えを()くことが大切(たいせつ)です。(おし)えというとむずかしそうですが、(すべ)てのものに()かるように親鸞(しんらん)さまは「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)をただとなえることが(おし)えを()くことだ」と(おし)えてくれました。

(ひと)は、阿弥陀仏(あみだぶつ)のようにすべての(いのち)(おな)じように()ることはできません。だからといって、(いのち)大切(たいせつ)にできないのではないのです。みなさんも(おし)えが()けるということは、(ふつ)となり(くる)しんでいる(ひと)(すく)うことができるかもしれないのです。(ぶつ)となるなんて、無理(むり)だとあきらめる人がいるかもしれません。平等(びょうどう)なんてありえないとあきらめる(ひと)がいるかも()れません。しかし、あきらめたら大切(たいせつ)(いのち)を捨てるのと(おな)じです。()んではいませんが、()きることをあきらめているのです。

みなさんは、「ちかい」というのをいつも()んでいますね。(わたし)は、「(ほとけ)()はやさしい(こころ)をわすれません」というちかいが()きです。自分(じぶん)のことだけでなくほかの(ひと)のことも(かんが)えられる人がいたら、(くる)しんでいる(ひと)といっしょに(かんが)えることができます。いくら勉強(べんきょう)ができても()(じん)のことを(かんが)えない(ひと)より、よっぽど、(くる)しんでいる(ひと)のことを(かんが)える(ひと)のほうがすてきだと(おも)います。みなさんは、そんなすてきな(ひと)になれると(しん)じています。みなさんはもう、(ほとけ)(おし)えを()いているのですからね。もっとみなさんがすてきな(ひと)になる一年(いちねん)になればいいです。


 アミダさまとおシャカさま 

 アミダさまは浄土真宗のお寺で中心にある仏像です。人格化されていて、アミダさまってどんな人とか思ってしまいますが、人ではない仏です。おシャカさまは、インドに生れられて人々に仏教を説いてくれた方です。人です。アミダさまとおシャカさまの関係は、おシャカさまが、阿弥陀仏が仮のすがたであらわれたものだととらえるのが、浄土真宗の見方です。この阿弥陀仏と釈迦仏の関係は、法然と親鸞が罪をきせられたことにもつながります。大きな権力を持っていた興福寺というお寺のお坊さん方が、「阿弥陀仏だけとは何事か!釈迦仏をけなしとるのか!」と怒ったのです。

 

教行信証のはじめの巻の教巻は、おシャカさまが、阿弥陀仏の教えを伝えるということが書かれています。

 ですが、なんと教行信証のシンプル版として、親鸞がしるした『浄土文類聚抄』には、教えをおシャカさまが説いたもので、阿弥陀仏の恵みではないとはずしているらしいのです。もちろん、『教行信証』には教えは阿弥陀仏の恵みとして書かれてあります。

 そういえば、総序を読んだときの疑問で、

 大聖一代の教、この徳海にしくなし。

訳、 釈迦仏が説かれた教えは、阿弥陀仏の教えに勝るものではない。

とあったのですが、これがどうして釈迦仏の教えが優れている事につながるのか?と思っていました。

 

 どうやら親鸞は、はじめの頃、釈迦仏と阿弥陀仏を分けて考えていたようですが、晩年は同じだと見ていたようなのです。びっくりしました!

 

『教行信証』

1年ぶりに更新します。

教行信証とは、親鸞の主著です。全部で6巻あります。

浄土真宗の教えは、教行信証を基礎に説かれているので、真宗を学んで4年たった頃には読み終えているだろうなと思っていました。ですが、いまだにつまみ読みしたくらいです。この春(まだ冬ですが)は、教行信証をもう一度初心に帰って読みたいです。

 今回は、総序について、おっと思ったことを書きました。

 ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

 訳、ああ広い誓いの強い力にどんなに生まれ変わっても会うのは難しく、真実の清らかな信心は永遠のときでも獲得するのは難しい。幸いにして、行いと信心を獲得したなら、仏のほうから結ばれた過去からの因縁によるものと遠く思いをはせて喜びなさい。

 人生のなかで、本当に親友と呼べる人と出会うのは難しいですね。本当の教えと出会うのもとても難しい事です。そのことを表現するために、普通漢文で表現するとき「たまたま」は「適」の字を使うのですが、親鸞は、「遇」という字を使いました。幸いにも教えにあえた喜びが表されています。

 念仏は、権力を否定していくものであるので、社会から弾圧されることが、当然であるといわれますが、

念仏者は弾圧にどう対処していけばいいのでしょうか?

 「親鸞聖人御消息」(6通目)には、信心を うることは 釈迦弥陀 十方諸仏の 御方便より たまはりたると しるへし しかれは 諸仏の 御おしえを そしることなし 余の善根を 行する人を そしることなし この念仏する人を にくみそしる人おも にくみそしること あるへからす あわれみをなし かなしむこゝろを もつへしとこそ 聖人は おほせことありしか あなかしこ~教学伝道研究センター

現代語訳(「信心を得ることは、釈尊や阿弥陀仏、十方諸仏のおかげであると知るべきです。ですから、諸仏の教えを悪く言ってはいけません。念仏をする人を悪く言う人でさえも、憎んだり悪く言ったりしてはいけません。哀れみいとおしむ心を持つべきです。」と法然上人はおっしゃいました。謹言) 

 念仏をする人を悪く言う人は、権力を否定されたら困る立場の権力者ですが、そういう権力者にも哀れみいとおしむ心を持つべきとあります。このことはどういうことなのでしょうか?

 わたしは、権力者も同じ人間であって、尊い命を持っているから、その人を憎んだり悪くいってはいけないということだと思います。むしろ自分の中に権力と結びつく面がないかを考えることが必要なのではないでしょうか。

 みなさんはどう思いますか?

 浄土はあるのでしょうか? 

 死後のことはわかりませんが、ただ私達のイメージしている浄土は、私達を浄土に向かわせるための方便であって、イメージどおりの浄土はないと思います。

 浄土は現実と表裏一体であって、見えないものだと聞きます。この世では見えないものはないといいます。だからこの世の価値観では、浄土はないはずです

 ですが、

 浄土を心の中の問題とすると結局自分のことで終わってしまわないでしょうか?それは、

・心の中の問題だと現実との接点が見えにくいから

・浄土を自分の中だけで考えてしまうからです。

 親鸞聖人は浄土を死んだあとのことだとはとらえていません。現実を生きている間に浄土の仲間入りをするという「現生正定聚」と言うことを言われています。

 では、

 現実を生きている間に浄土の仲間入りをするということはどういうことでしょうか?

 このことは、浄土から働きかけられていることに目覚め、新たな主体として生まれ変わることだという言われ方をしますが、

主体とは何でしょうか?

生まれ変わることは、自我から無我へ転じることといわれます。無我とは自分をなくすことではありません。自分の存在を超えたものに出会うことです。

 =>二葉憲香著『仏教無我伝承の実現』(永田文昌堂)

に詳しく述べられています。

あと、親鸞聖人の浄土観を考えるとき「歎異抄2条」を思い出します。ここには、法然上人にだまされて、地獄に落ちたとしてもかまわないという親鸞聖人の決心を見ることができます。

 みなさんは浄土についてどう思われますか?

 浄土真宗について最近疑問に思うことについて書きました。

浄土真宗では、親鸞聖人の教えの話をするのを、法話といいます。ですが、現代に法話という布教手段でいいのかと思うのです。それは、法話は今の時代にあっていない気がするのです。手段を変えたといっても、変わることは望めませんが、まず現実的な問題から考えることで、問題の核心を考えてみたいと思います。

 私は正直に言って、 現在のようなありがたい話ではダメだと思います。

理由は、

 ありがたいことを前提とすると、ありがたいと言う壁が、自分の心を閉ざし、聞く耳を持たなくなる(自分を問わなくなる)から。

 本当の感情ではなく、作り上げた感情だから。

です。

ありがたいと思わないのは悪いことでしょうか?

 教えがわからないのに、その教えがありがたいと思えますか?教えがなぜありがたいかを考えるのは、疑いではないと思います。

では、

ありがたいかどうか考える基準とはなんでしょうか?

 これは、自分の考える基準ではないのは確かです。自分の考える基準とは、自己中心的だからです。

 考え抜いた先に、自分の考えの限界を知り、本当のありがたさを感じることができるのではないかと思います。簡単に限界を定めてしまった(*1)ら、まだどこかに自分を頼る心が残るかもしれないのです。

1に関して

教えにこれが正解だと決め付ける、暗記型の学び方など

みなさんはどう思いますか?

ひざたたき

<対象年齢> 小学生

<対象人数>5人~60人 

<場所>円が作れる人数に合わせたスペース 

<目的> 協力してひとつのことを成し遂げる。

<準備するもの>ストップウォッチ

<内容> 

円になり座った状態で、右手を右のお友達の右ひざ、左手を左のお友達の左ひざに一人づつ順番に置いていく。そして全員が手を置いた時間を計る。

<約束>

1、ひどくたたかない

 2、ひとりづつたたく

 3、みんなで協力する