最近、子供のいじめ自殺という事件が起きています。そんななかどうすれば命が大切にできるか考えて、1月に大阪のお寺で、子供さんに話したものをのせてみました。
みなさんのような小学生が、自分の大切な命を自分の手でうばうということがあります。今、小学生にもおきている「いじめ自殺」という事件です。この「いじめ自殺」という事件は命の大切さが分からないから起こるのではないでしょうか。いくら自分の命を大切にしていても、他人の命を大切にしないのなら、命を大切にすることにはならないのです。いじめを苦に自殺した人の中には、「まだ生きたかった」と書いている人もいます。いじめで苦しんでいた人の声を聞いていたら、自殺しなかったのかもしれません。私たちが、テレビを見て笑ったり、マンガを読んだりして楽しんでいるときに、だれかがいじめられて泣いていたり、死のうと考えているのです。自分だけ楽しく、自分の楽しさのためなら他のだれかが苦しんでもいいのでしょうか。自分が生きることだけ考えて、自分が知らない人の死は考えないし、また知っている人でもまるでその人が生きていないように無視したりする。「自分・他人」という分け方や、「生・死」というわけ方で見るのは楽ですが、ときにまちがった見方をして、だれかを苦しめてしまうことがあるのです。
今月は、新しい年のはじまりの月ですが、親鸞さまのなくなられた月でもあります。親鸞さまは、まちがった分け方をしてしまう私たちに、言ってくれたことがあります。
「阿弥陀仏がはなたれる光はすべてのものを照らし、その光にあたったものは、それぞれわるい見方からからはなれるので、全ての命を同じように大切にする阿弥陀仏をたよりなさい」
たくさんの命が失われている今、全ての命を同じように大切にする阿弥陀仏の教えを聞くことが大切です。教えというとむずかしそうですが、全てのものに分かるように親鸞さまは「南無阿弥陀仏をただとなえることが教えを聞くことだ」と教えてくれました。
人は、阿弥陀仏のようにすべての命を同じように見ることはできません。だからといって、命を大切にできないのではないのです。みなさんも教えが聞けるということは、仏となり苦しんでいる人を救うことができるかもしれないのです。仏となるなんて、無理だとあきらめる人がいるかもしれません。平等なんてありえないとあきらめる人がいるかも知れません。しかし、あきらめたら大切な命を捨てるのと同じです。死んではいませんが、生きることをあきらめているのです。
みなさんは、「ちかい」というのをいつも読んでいますね。私は、「仏の子はやさしい心をわすれません」というちかいが好きです。自分のことだけでなくほかの人のことも考えられる人がいたら、苦しんでいる人といっしょに考えることができます。いくら勉強ができても他の人のことを考えない人より、よっぽど、苦しんでいる人のことを考える人のほうがすてきだと思います。みなさんは、そんなすてきな人になれると信じています。みなさんはもう、仏の教えを聞いているのですからね。もっとみなさんがすてきな人になる一年になればいいです。