mokiti okada -5ページ目

Conclusion

mokiti okada http://www.rattail.org/english/index.html

Conclusion


   What is the impression of those who have finished reading this volume? I do wish to know your unreserved opinion. My intention in writing this book, as can be seen throughout, is to implant a firm religious conviction in the minds of readers and guide them to a state of peace of mind with which they can make their way through the confused conditions of our age that can be observed everywhere. I continue to endeavor to contribute to the formation of eternal peace that will be paralleled by the creation of happiness on the individual level, on the next level, to the reconstruction of society with better conditions, and ultimately to dramatic improvement for all of humanity. When we trace the development of culture from primitive ages to the present, there is no need to remark on the wonderful progress, but inexplicably this progress has not been accompanied by the creation of happiness for human beings. We must understand that there is an important defect in our culture if its progress does not include the condition of happiness for its members. In other words, the progress of material culture has not also seen progress in spiritual culture, and our civilization is nothing more than severely crippled.
   Because of this fundamental handicap, I keenly feel that if humanity does not make great strides forward in the development of its backward spiritual culture, our hopes for happiness will remain unfulfilled. Knowledge of the actuality of the spirit and the significance of life and death, which are the fundamental concepts for the development and progress of spiritual civilization, must be firmly implanted in all members of society. It is only natural that great difficulty accompanies my work since I am trying to bring people to be able to recognize the reality of what is invisible to the human eye. As the first step in accomplishing this purpose of education, an indispensable requirement is the writing of my personal experiences as they are, without addition of subjective elements.
   Encouraging the progress of spiritual civilization is something religion should have undertaken, but it did not. There might have been some persons who did teach these matters, but because what they did teach was of such an academic and theoretical nature, the general public could not understand. Otherwise, most who taught were to the point of being either eccentric and self-righteous or else mythical and allegorical, so they appeared amusing if not superstitious, and did not manifest power to truly save. As the modern age came into being, this trend became even more pronounced, and increasingly the powerlessness of the existing, established religions came to be propounded. Intellectuals especially feared that embracing religion would impinge upon their own influence, and some continue to warn against any form of contact with religion. Conditions in the world have gradually deteriorated, though, and religion reiterates that only it has the key to solving problems, but as we have seen, people are not prepared to give an ear to these claims.
   Furthermore, the problem of youth has become a grave issue since the war. Loyalty and patriotism which had been the driving forces of Japanese youth were completely shattered with the end of hostilities. Youth has become lost in the course of events, some falling into desperate nihilism, and not a few others in utter desperation, turn to crime. No new purpose has come to take the place of former goals, and a guiding force is not on the horizon. In addition to the economic torment, young people live each day in unease and in turmoil. The situation is indeed serious. I frankly declare that the power to solve these problems regretfully cannot be found among existing religions.
   Nevertheless, the kinds of social problems I have described need to be solved as quickly as possible. When we turn our eyes to the situation overseas, there is probably no one who has not seen in the newspapers or heard on the radio of the people who tremble in fear oppressed by the grave conditions of their daily lives in. My evaluation of how the happiness of humanity has not paralleled the progress of culture is illustrated on many levels in many ways.
   I know that I am not the only person who finds the future of the world difficult to predict unless there appears a religion both powerful and rejuvenating.


The saviour mokiti okada http://www.rattail.org/english/index.html
http://www.tokyo-reimei.or.jp/english/english_hp.html

Okada Mokichi

最高の神様は国常立尊様

大国常立尊様は最高の神様である。


大国常立尊は造物主の仕事をされた。造物主といえる。主神の命により造物主の仕事をした。


国常立尊はメシヤであられ、閻魔大王であられる。(メシヤは救世主という意味)


最高の神たる国常立尊様


節分というのは、古い時代に国常立尊という神様が、世界を支配していたということになっているのですが、その


時分のことだから、世界といったところで全部だかどうだか分かりませんが、まず日本を中心にして、そうとう広範


囲に支配していたに違いないのです。それで神様といったところで、やはり人間なのです。しかしその時分の人


間は非常に霊が高かったのです。その時分は昼間の世界の終わりぐらいだったのですが、ところが長い時代に


だんだん人間が、夜の世界のために穢れに穢れて、霊的にレベルが低くなったわけです。それでよく「天神七


代、地神五代」ということがありますが、天神時代というのは、天の神様……神道のほうで言うと「天津系」「国津


系」あるいは「天津神」「国津神」と言いますが、天系です。だいたい日本民族は天系なのです。その天系だった


ころは天照天皇という最後の天皇が支配していたのです。それで、これはいつかも言いましたが、天照天皇が日


本を逃げて、皇后様だけが残って、それが天照大御神と、こうなっているのですが、それよりか前に国常立尊と


いう神様が支配されていたのです。その神様は非常に厳格で、つまり至正至直で、ごく正しいことでないと許さな


い、というようなことのために――これも神道の方にもありますが ――大勢の神様が一致して押し込めたのが節


分の晩としてあるのです。その押し込めた方の総大将が天若彦という神様で、そうして、もう国常立尊は世の中


に出られないようにというので、艮(東北)の方角に押し込めたとなっているのです。そうして、艮に押し込めたか


らして艮の金神というお名前にもなり、艮の金神国常立尊となったのです。そうして節分の晩に豆をまきます


が、“炒豆に花が咲いたら出てもよい、さもなければ永久に押し込めてしまう”というわけで、それから炒豆をまい


たのです。それは三千年としてありますが、いよいよ三千年たって、その国常立尊様がふたたびこの世に現われ


る、その機関としてできたのが大本教です。ですから大本教のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神


の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ


世であるぞよ」ということを教祖は獅子吼(ししく)したわけです。最初大きな声をして怒鳴ったのです。それで気違


い扱いされて警察に留置されたことがありますが、そういうわけで気違い婆さんにされたわけです。それが明治


二十五年の一月元日です。ですから“梅で開く”というが、海というのは、花は五弁になってます。これは五大州


を形取ってあるのだそうです。ですから“一度に開く梅の花”というのは、世界が一度に開くということなのです。と


ころが今年の節分は、いよいよ艮の金神様が表になる、つまり今まで三千年隠れていたのが表面になるので


す。それで、大本教を開いたのは、霊界がそうなったのです。ところが今度は現界がそうなる。ということになった


のは、この節分にお知らせがあったのです。それはいずれ言いますが、今はまだ言うことはできません。一年ぐ


らいは言うことはできないのです。それはやはり梅に関した奇蹟なのです。それは私は三、四年前から準備して


いたことですが、そういうようなわけで、いよいよ表になるということと、それからお筆先に「今度はこの世の閻魔と


現われるから」ということがあるのです。というのは、御隠退になっているときは、霊界に行かれて閻魔大王になる


のです。閻魔大王というのは、要するに霊界における審判の……今で言う検事総長とか最高裁判所長というよう


な、そういった……裁きの最高の地位です。ところが「この世の閻魔と現われた」というのですからして、今度は


現界的の裁きをされるわけです。これが審判です。

 これがまたおもしろいのは、立春の日に京都の方の道具屋が閻魔大王の絵を持ってきたのです。それで私


は“ハハア、神様は、いよいよ国常立尊様が現界の閻魔のお働きをされるということだ”ということを思って買いま


した。それは支那の元時代の絵ですが、閻羅(えんら)王と書いてありますが、支那では閻魔大王のことを閻羅


王と言うのです。吉田松陰の書いたものにもありますが、「精神一到何事か成らざらん。われ王侯を得ずんば、


死して閻羅王とならん」ということがありますが、王侯というのは大名のことを言うのです。やはり日本でも閻羅王


ということを言われたわけです。それで、家来が二、三人いましたが、いずれ美術館に出します。神様はすべて


型で見せますから、その閻羅王の掛物によってお知らせになったわけです。そういうようなことがあったのです。


立春の日には、その掛物は知らなかったのですが、その掛物は午後に来たのです。それでこの節分から非常に


浄化が強くなるということを言いましたが、やはり合っているわけです。そういうようなわけで、今年からまた非常


に霊界が明るくなるわけです。明るくなると、善の方は非常によいですが、悪の方は反対に非常に苦しいことにな


ります。最近いろんな汚職事件が出ましたが、こんなに一度に次々に出るのは、今までに例がないでしょう。これ


もやっぱりその一つの現われというように見られないことはないです。そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌っ


て、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわけです。それで「福は


内、鬼は外」と言いますが、「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様ということになるからして、


実は、一番善い神様、一番立派な神様です。それでおもしろいのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまくとき


には「鬼は内、福は外」と言うのです。それはやっぱりその時分から天若彦に対する反対のやり方だったわけで


す。そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うということは、人間が正しい人がなかったからです。た


いてい穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こる


わけです。それで浄化というのは災難や苦しみですから、そこで嫌ったというわけです。だから本当から言えば、


もし方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。ただ病気と同じで、一時浄化作用が起こりますから、そこ


で怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。ですから他の宗教は、豆まきというと非常にさかんで、むし


ろ宣伝的にやりますが、救世教は絶対にやらないということは、そういう根本的の理由があるからです。


 国常立尊は今迄は霊界で、閻魔大王になられ、審判の神様であった。厳粛な、善悪を差別し、悪人は承知せ


ぬというようなお働きで、善悪無差別で、慈悲を賜う観音様とは反対のお働きである。

 国常立尊は、相当以前から霊界をやめて、外の神様に任せて、現界でお働きになられ、いつも私を守護して下


さる。力のあるのは一番で、いかなる悪魔でも国常立尊には敵わぬ。お浄めなども、先に、力のある悪魔をする


場合は国常立尊の御守護を願うのである。鬼門の神様とはこの神様で、悪神といい、鬼は外福は内などという鬼


というのも、この神様で、大本教でも御嶽教でも、この神様を祭っている。丹波の綾部地方では、「鬼は内福は


外」という。綾部は国常立尊様の地場といい、昔はその御座所があった。


節分というものは“福は内、鬼は外”で、鬼の災いを避けるという、昔からの行事があるのです。そのためにほうぼ


うの神社仏閣で豆まきをやるのです。ところでこれは、前にも話したことがありますが、あべこべなのです。鬼と


いうのは偉い神様なのです。艮の金神国常立尊という神様です。今日の御讃歌にも「常立の神」というのがあり


ましたが、国常立尊のことを略して常立の神と詠んだのです。それからもう一つ「艮の神」ということも入れてあり


ました。そういうようで、つまり事の起り始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。そう古いこと


でもないのです。もっとも三千年ということになってますから、三千年前はやっぱり人間の世界です。この国常立


尊という神様が世界的に支配していた時代があったのです。ところが非常に厳格な神様で、間違ったことは許さ


ないというために――大本教のお筆先などを見ると分かりますが――つまりあまり厳しいので八百万の神様がと


てもやりきれないというので、こういうやかましい神様は押し込めなければ楽はできないというわけで、押し込めら


れたわけです。押し込めた方の神様は天若彦(あめにわかひこ)神というのです。これはよく天邪鬼(あまのじゃ


く)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、なんでも横車を押すという性格の


神様です。それで国常立尊という神様を、艮(東北)に押し込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌み嫌った


のです。もっとも忌み嫌うわけです。人間の方が間違ったことをすれば、そういうやかましい神様を嫌うわけです


から、どうしてもそうなるわけです。そうして鬼門除けと言って、いろんなことをやったのです。そういうわけで、三


千年押し込められたとしてあります。そうしてその神様が明治二十五年に大本教の教祖の出口なおという方に憑


られて非常に怒鳴ったのです。出口なお刀自の口を借りて怒鳴ったのです。その第一声が「三千世界一度に開


く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がか


まわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼(ししく)です。それで、大きな声を


して怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引っ張られて、二十日か三十日間勾留されたのです。それが大本


教の始まりなのです。

 その艮の金神という神様は、押し込められて肉体の方はなくなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王にな


るのです。それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁くお役目です。閻魔大王というと非常に恐ろ


しがられたのです。それが、本当は至正至直の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろし


い顔に見えるのです。これは霊がそういうことを言ってました。それから心の善い人がゆくと、非常に柔和な慕わ


しい優しい神様のお顔に見えるのです。これはおもしろいです。というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金


神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、“この世の閻魔”ということは、現界の審判をなされるということ


です。今までは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。“この世に現われ


て”というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の


守護になるぞよ」とありますが、すべて現界的になるわけです。では、それはいつかと言いますと、だいたい明治


二十五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。霊界でも三段になっていまして、一段ずつだん


だんと近寄ってくるのです。それでいよいよ最後の段をすまして、直接現界に現われるというのが今日からなの


です。そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。恐ろしいですが、しかしそれはこっちに邪念があっ


たり曇りがあったりすると怖いので、そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持っていればありがたいので


す。今まで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。そ


れから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。最近いろんな汚職事件がめち


ゃめちゃに現われてきました。よくもそういった不正事件が出るということは、今までに例がないように思います。


これもいわゆる審判が近寄ったということを現わしていると思います。それで、艮の金神様が表に現われるという


ことは、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。やっぱり霊界が明るくなるので


す。だから今まで隠していたり隠蔽していたものが現われるのです。目に見えるわけです。そこでいろんなそうい


うことが出てくるのです。それから今年からまた一段と病気が多くなります。それとともに薬毒がだんだんはっき


りしてくるわけです。以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。そうなると救世教というも


のの発展が著しくなり、大いに発展するわけです。その段階に入ってきたわけなのですから、大いに働き甲斐が


あるわけです。今まで押さえつけられていたのが、その押さえつける力が弱るわけです。今まで十回も二十回も


話をしなくては分からなかったのが、今度は五、六回で分かるというような意味になるわけです。そうかといって、


神様のことは急に目に見えるようには現われないものなのです。つまりなんとなくジリジリジリジリ進んで行くわ


けです。今年、来年、再来年というように、年々早くもなるし、それからはっきりもしてくるのです。

よく屋敷の中を修理したりしますと急に体が悪くなり、行者のような人に見て戴きますと、金神様の祟りですと申さ


れますが、ほんとうにあるものでしょうか。また、金神様はどういう目的で屋敷の中にいるのでしょうか。お伺い申


し上げます。

 金神は沢山いる。一番の総統領、総帥は艮の金神様で、眷族は沢山いる。それが


金神になっている。よく転んだり、躓いたりするのは艮神の祟りなりというが、これは


種々な霊がやるので、龍神、狐霊の類で、家のどこかに憑依しているのが祟る。

 金神様は神であるから、そう祟るなどという事は当らぬ。


 金神様の祟り等と申し、御嶽教ではその除(よ)けを致します。相当な重病人でもその除けを致します。金神様


の除け等が果して出来るもので御座いましょうか。御伺い申し上げます。

 金神の祟りというのは狐か狸の類である。御馳走を食いたいためにイタズラするの


である、食物を上げて拝むから、金神除けという御嶽教は――。

 半分迷信である。何にもせぬ方がよい。何にもやらなければ先方も諦める。