さきたま風土記の丘 | 塵芥想

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盆に帰省してさきたま風土記の丘に行ってきた。

ここは「奥の山古墳」

どこからが始まりでどこで終わるのか知らないけれど

古墳群の最も奥になるといわれている古墳だ。

 

小学生のころ級友を連れ立って

再三訪れた「さきたま風土紀の丘」

雄略天皇の名とされる鉄剣が出土された

稲荷山古墳で知られる埼玉県行田市の古墳群だ。

 

幼いころから歴史好きだった。

利根川の岸から

バスに乗って加須駅に出る。

加須から羽生へ乗り継ぎ

秩父線という単線に乗り

武州荒木におりる。

 

ここには聖徳太子の幼いころの像があるというので

お寺に掛け合って拝観して

そこから用水沿いを歩いてしばらく

田んぼの中の小高い丘を発見して

ドキドキしながら古墳群にたどり着いた。

 

あちこちの古墳を見て回り

日が暮れるのも忘れて過ごしていた。

小学生の私と友人たち。

 

あの頃は本当に田んぼの中の小高い丘でしかなかった。

手を入れる人もなく。

ただ、

古くからの遺跡であることは明らかで

こんな掲示もなく、

資料の地図を目安に

あちこちを見て回っていた。

「中の山古墳」は資料館のすぐわきにある。

地味だけど目につきやすい古墳だ。

 

当時は二子山古墳が一番大きく

手が入っていた。

丸墓山古墳が円墳として東日本一、

石田三成が忍城攻めの時に陣を敷いた。

稲荷山古墳も円墳部しか残っていなくて

出土された貴重な資料から研究が進んでいると聞いた。

 

それから間もなく

稲荷山古墳の鉄剣が大発見であることが分かった。

そして遺跡としての価値が再発見され

古墳にも手が入っていく。

 

将軍塚とか鉄砲塚とかいろいろあった。

こんな田舎に古来から多くの人が集っていた事実が

不思議であった。

資料館だけでなく

休憩所までできて

人の足が増えたようだ。

 

子どものころは

近所の駄菓子屋のような休憩場所で

ところてんだか何だかを買い食いして

休んだ記憶だ。

ずいぶんおしゃれになったものだ。

数年前にこのブログでも紹介した。

あちこちにの古墳に行く時間はなかったけれど

一日中いられそうな懐かしい場所だ。