真実は、「宇宙は全てを与えっ放し」なのです! by ピュア・インスピレーション様

「このことを知っていた「カバリスト(カバラの奥義を知る人)」の「祈り」は、実に驚嘆すべきものです。
彼ら(カバリスト)も「願望」します。祈ります。
しかし、彼らはこう祈るのです。」との「ソウルカメラの栞~願望実現法の栞」より。

「(カバリストはユダヤ教徒なので、「神」に祈るという形になります。)

「あなた(神)は、全てをお与えになってくださっておられます。しかし、私のいたらなさ故、今私が全てを『受け取ってはいない』ことをお許しください。どうか、『全てを受け取れる』私になりますように。いや、『今、全てを受け取っていること』がわかる私になれますように」

・・・つまり、カバリストたちは、「神(宇宙)」に「注文(不足の申し立て)」を祈るのではなく、「全てを与えられながら受け取れていない(と、感じている)自分の『在り方(受け取り方)』が変わります様に、と「祈り」を捧げるのです。

※詳細は、上部リンクよりどうぞ。

コメント:

ひふみ神示やニューエイジ、シンクロニシティ(個人的に偶然の真理と思ってる)を理解する過程で・・・つの頃からか私も同じような祈りをする事が多々ありますね。

シンクロニシティを得ていても、何かできるように感じなく、イマイチに感じたり、現実に対して、無力感を感じる時とか不足、不満を感じるとき・・・とか。

しかし、シンクロニシティから神々・天使等の存在を感じて、日々成長させてもらっているので、存在に親しんでますし、何を思ったとしても存在が在る事に共感(歓んで)し感謝しているのです。変な気分になりますが(笑)

理想の現実とミスマッチしてしまうような事、ついつい神の奇跡を期待したくなるよな時とか、神(絶対無限の存在)は全てを与えてくれているのに、いまいち認識、理解できない自分に対して、分かるようになりますように!みたいな感じですね。

今では、存在の認識付きですから、神は存在しているのに、全てを受け取れない自分が、全てを受け取れますように!くらいなものになっています。

ただ、受け取ると言っても、その受取方ですが・・・

悪神とか善の神とか二分割してしまうと、私の理解では、どちらも現れる事になりそうです。二元性を超えた理解が大事なのではないでしょうか。それは、優しい神でしょうか?厳しい神でしょうか?

わざわざ、厳しい神にしていたら、厳しい現実になるのではないでしょうか。優しい神でも変化に対する理解がないと、優しい神も厳しい神になってしまうのではないでしょうか。

心や思考とのチャネリング・メッセージなどとのシンクロニシティを例に取ってみてると、内部から何処かに繋がっている事になるわけですから、神は私達も含めて全て(一つ)なのに優しい神と厳しい神なんであるのでしょうか?

会社で好きにさせてくれる上司がいて、遊んでばかりいたら突然、仕事から外された!みたいな?(笑) 同じ仕事なら何をしていても文句を言われないような自由な中で自ら進んで仕事を進められる方が楽しいですよね?厳しく口うるさい上司で拘束するような辛い現実の中で愛を見つけるってのもありでしょうが・・・私は嫌ですね。

しかし会社が目指す先は一つの方向です。
善一筋の神・・・それは一体何なのか?何をもって善と言うのか?

・神は、優しいのに厳しい。 by ひふみ神示
↑神を理解したい、知りたいのに放置プレイに感じるこの現実そのものではないでしょうか。存在を感じ出した場合と、そうでない場合では、放置プレイを感じる意味さえ変わってきます。現実が優しく感じても厳しく感じても神は、神を感じようとも、いつでも自由にさせてくれているのです。自立しなさいって事だと感じるかもしれません。

現実を作っているのは大き存在の中の小さき自分です。また、小さいのに大きいとも言えるのではないでしょうか。大きな存在(集合体達)の中の小さき存在としての幸せって何でしょうか。

私の場合、全てを与えてくれている事を前提にできるだけの理由が、ひふみ神示(理解の柱、私にとっての動かぬ富士鳴門の仕組み)、瞑想、祈り、思考、気付き等、自己確立していく中でひふみ神示を柱とした心の成長とチャネリングメッセージによるシンクロニシティが主になっています。