ユダヤ教の歴史:1~5に6を追加します。
ユダヤ教の成立は、「出エジプト」で無く、新バビロニア(カルデア)によって捕囚されたユダヤ人を、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が「パレスチナに帰りたいユダヤ人は帰りなさい」と行った事に始まります。
ところが、寛容な自治を認めたアケメネス朝で、バビロンからパレスチナに帰るユダヤ人は少数だったのです。ですから、帰らない多数者のユダヤ人に対し、パレスチナに帰る少数者は、「おまえたちは救われない」というため、パレスチナに帰る人間こそユダヤ人の中でも選ばれた民であるとしたのです。これを選民思想と言います。
アッシリアがイスラエル王国を滅ぼした時、南にいた同じユダヤ人の国家ユダ王国は、アッシリアに協力し、イスラエル王国の滅亡に加担しています。バビロン捕囚で捕らわれた人々は、同じユダヤ人国家であるイスラエル王国滅亡に協力,加担したのですよ。その中で、少数のパレスチナに帰ったものがつくったのがユダヤ教です。
ゾロアスター教は、二神教のペルシア(イラン)人の宗教です。アフラ=マズダとアーリマンの両神の中で、人間は「最後の審判」を受けます。この「最後の審判」の思想こそ、ユダヤ教がアケメネス朝の影響下で生まれたことを証明しています。
さて、ユダヤ教に入信しなかったユダヤ人は、ユダヤ教成立以後、ユダヤ人と認められなくなりました。同化の道を進みます。
紀元66年からローマ帝国に対しユダヤ戦争を起こしますが鎮圧されます。ユダヤ教徒による自治は廃止されました。当時のローマ帝国は多神教で、この事件はキリスト教と関係ありません。
紀元132年、バル コクバの乱の鎮圧により、属州ユダヤの名称が無くなり、この地に属州パレスチナという名称が復活しました。以来ユダヤ教徒はアジア,ヨーロッパ各地に居住することになりました。
キリスト教は392年ローマ帝国の国教とされますが、ローマは、395年に分裂します。東西ローマ帝国内で住むものも発生しますが、多くはアジアにいました。忘れてはなりません。ユダヤ教徒は、どの地においても、土地保有が出来ない状況で、行商や金貸し(高利貸し)などで生計を立てました。とりわけ伝統的に金融業を営む者が多かったのです。
こうした時期の後、イスラームが成立するのです。キリスト教が「最後の審判」を持つように、イスラームも「最後の審判」を持ちます。ゾロアスター教は、ユダヤ教,キリスト教を経てイスラームで完成したと言って過言ではありません。
イスラームは、ユダヤ教徒・キリスト教徒を「啓典の民」とたたえ、「旧約聖書」 「新約聖書」はクァラーンと共に預言者の書とされました。従って、ユダヤ人は、イスラーム世界で共存し、彼らは金融業で繁栄していきます。
いいですか、イスラームは何もユダヤ教徒を否定していません。
イスラームは、その合理的な考えで世界を席巻します。第一代カリフ、アブー=バクルはイスラームをまとめ、ジハードで征服地を広げます。第二代ウマルがヒジュラ暦を作り、征服地の統一した統治を始めました。第三代ウスマーンがクァラーンの編纂を始めました。
ジハード成功の要因は、アラブ人自らはミスルに住み、異民族・異教徒に寛大なことでした。この時、イベリア半島がイスラームの支配地に入り、ユダヤ教徒は現在のヨーロッパに入りました。
西ヨーロッパは12世紀の「商業の革命」で、商人を必要とし、神聖ローマ帝国諸都市には、ユダヤ教徒居住区(シナゴーク)が作られました。ユダヤ居住区は、以来作られたのですよ。
イベリア半島では、キリスト教徒のレコンキスタ(再征服)でイスラームの支配は無くなります。その年は1492年です。
ところが、1517年ルターの宗教改革(die Reformation)が始まると、ハプスブルク家の支配するスペインは、カトリックの拠点となります。イグナティウス=ロヨラがイエズス会を結成します。16世紀後半、カトリックは異端尋問を激しく詰め寄り、ユダヤ教徒はこの地での居住が困難になります。
その時、ポーランド=リトアニア共和国が国力充実のため、農耕民としてユダヤ人教徒の入植を認めます。ために、イベリア半島からポーランド=リトアニアに多数のユダヤ教徒が入植することになりました。
他方、オスマン帝国が1396年ニコポリスの戦いで勝利し、バルカン半島はイスラームの支配下に入ります。もちろんユダヤ教徒も入って来ます。こうして、神聖ローマ帝国領域、ポーランド=リトアニア領域、バルカン半島にユダヤ教徒が居住することになりました。
ロシアは1243年以来キプチャク=ハン国の支配に入っています。キプチャク=ハン国は、早くからイスラーム化しています。
つまり、イスラームがユダヤ教徒を守っていたことになります。
またポーランド=リトアニアの決断がユダヤ教徒の生活領域を増やしたと言えます。歴史的に見ればユダヤ教徒は、イスラームに感謝することがあっても、否定はできません。
シオニズムという呼称は、1890年代(たった今から120年前!!!)、オーストリアの同化ユダヤ教徒であるナータン ビルンバウムにより考案されました。1881年,1882年のロシアにおけるポグロム(ユダヤ教徒虐殺)がウィーンのユダヤ教徒世界に衝撃を与えたと思われます。
この時代はナショナリズムを主張することが時代の流れでありましたから、ユダヤ教徒がナショナリズム的主張をしてもおかしくはありません。
しかし、実はユダヤ教徒は各国の諸民族に同化しており、独自の言語をもたないのでナショナリズムの範疇にありません。民族とは言い難いのです。
オーストリア人記者テオドール ヘルツルは、ユダヤ教徒自らが国家を建設し諸外国に承認させることを訴えます。そして1897年バーゼルで第1回シオニスト会議を主宰します。イスラエルの建国の父といわれる、恐るべき人物です。
シオニズムの運動に全てのユダヤ教徒が賛同したわけではありません。シオニストはユダヤ教徒の民族性を保つため、母語を必要としました。そこでイディッシュ語を用います。しかしイディッシュ語はほぼドイツ語です。これでは母語になり得ないと考えたシオニストは、ヘブライ語(当時死語であった)を復活する企みを行います。
ユダヤ人国家の再現が、いかにシオニストの他愛ない夢想だと言うことが、分かってもらえれば良いのです。彼らは、ヨーロッパ・アジア各地域で諸民族に同化していたのです。それを、ことさらユダヤ教徒の国作りにしたのは、今から120年前に突然考案されたシオニズムです。
イスラエルは、歴史上、人造された国家です。
フサイン=マクマホン協定(1915年10月24日), サイクス=ピコ協定(1916年5月), バルフォア宣言(1917年11月2日)の矛盾するイギリスの態度。
いずれも高校世界史で習います。フサイン=マクアホン協定は、ロシア革命後の1917年11月に、ロシア革命政府によって暴露されるサイクス=ピコ協定と矛盾しています。フサインにアラブの独立を認めながら、UK, フランス, ロシアの管理区域を決めています。革命ロシアは権利を放棄しました。
バルフォア宣言は当時のシオニスト連盟会長であるロスチャイルドへの書簡で、フサイン=マクマホン協定と矛盾しています。
イギリスは三枚舌の秘密外交を第一次世界大戦中、行っていたのです。
バルフォア宣言がパレスチナ問題との関連でもっと深刻な政治問題となった点は、アラブ人とユダヤ人の民族的対立の枠組みを作り上げることになったことです。
もともとはアラビア語を喋りその民族的な伝統を共有する民族集団としてムスリム、キリスト教徒、そしてユダヤ教徒を含んでいたイスラーム社会からユダヤ教徒を意図的に排除してしまったからです。
しかし反UKアラブ大反乱(1936-39年)に苦慮したUK政府は1939年5月パレスチナ外交白書を出し、事実上バルフォア宣言を撤回します。パレスチナにおけるユダヤ教徒優遇政策放棄を打ち出しました。5年後にはユダヤ教徒移民を禁止しパレスチナ自治政府樹立を容認するとします。
この新政策は、世界シオニスト機構と真っ向から対立し、シオニストはUSに近づきます。
1942年5月6-11日に世界シオニスト機構臨時会議が、開かれます。ヨーロッパ, USのシオニスト総勢600余名が参加してニューヨークで開かれました。(このシオニストの宣言をビルトモア綱領という。高校世界史では、学ばない。)
シオニストはユダヤ教徒国家実現に武力路線も辞さない改訂派が主導権を握る形でUKとの対決姿勢を強めます。シオニストは世界シオニスト機構の路線の大きな変更を打ち出しました。
シオニストがパレスチナ委任統治における「ユダヤ教徒の民族的郷土 national home」の枠組みを越え、USの支援で、パレスチナで国家機構や軍隊を備えたユダヤ教徒国家建設の方向を打ち出したのです。
1939年5月パレスチナ外交白書(マクドナルド白書という)が発行された時、UKは1938年9月のミュンヘン会談を頂点とした宥和政策の真只中にいました。宥和政策で孤立したソヴェト連邦は1939年8月23日ドイツ ソヴェト連邦不可侵条約および付属議定書を結び、自国を守ることに専念しました。UK, フランスのドイツへの対応に愛想を尽かしたのです。1939年9月1日、ドイツ ソヴェト連邦がポーランドに進攻し第二次世界大戦が始まりました。驚いたUK, フランスは、ようやく9月3日ドイツに宣戦布告します。従ってUKの対ドイツ宥和政策は吹っ飛びました。
UKは1940年6月にダンケルクから撤退し、6月フランスはパリを占領され、ナチスがヨーロッパ大陸を支配することになりました。1940年9月には日本=ドイツ=イタリア三国(軍事)同盟が結ばれました。
1941年6月からドイツ ソヴェト連邦戦が始まり、7月にはUK=ソヴェト連邦軍事同盟が結ばれました。UKは、本気でドイツと戦争することにしたわけです。同年7月、日本はフランス領インドシナへの侵略を開始します。フランスの第五共和政政府がなくなり、ドイツ占領下になったことを利用しました。
1941年12月7日、日本が真珠湾とタイ領パタニなどを侵略し、アジア太平洋戦争を開始します。ここに到り、それまで中立国宣言していたUSもドイツに宣戦布告します。
ところがここで、恐ろしいことが起こります。それが1942年1月のナチスによるポーランド系ユダヤ人絶滅作戦(ラインハルト作戦)です。United Nations(連合国:のちの国際連合)の反撃は、日本に対しては1942年6月のミッドウェー海戦であり、ドイツに対しては1942年8月からのスターリングラード攻防戦でした。
ユダヤ人絶滅作戦とUnited Nationsの反撃作戦の間の1942年5月6 - 11日に、世界シオニスト機構臨時会議が開かれます。シオニストは、USの支援で、パレスチナで国家機構や軍隊を備えたユダヤ教徒国家建設の方向を打ち出したのです。
この歴史的経過を見ると、ドイツのポーランド系ユダヤ人絶滅作戦がユダヤ教徒の動向に決定的な影響を与えています。ついに、シオニストはあってはならない独自国家の建設を考えるに至ったのです。
