では、第16回目の授業のつづき
2-13. 日露戦争とアジア(2)
日本イギリス同盟が先か、日露戦争が先か?
この単元は、世界が地球規模になる時なので、充分考えないといけない。
(八国聯軍に不足するイギリス兵を補うためにインド兵を用いた)
(南アフリカ戦争 1900年 Spionkop でのイギリス消耗兵)
小学校, 中学校と日露戦争(日本=ロシア戦争)の原因は、ロシアの南下政策にあると検定教科書で学ぶが、実はそうではない。
1899年10月11日~1902年5月31日 南アフリカ戦争
1900年6月20日~1901年9月7日 八国聯軍侵略戦争
1900年8月 韓国皇帝中立国路線で協議、日本拒絶
1901年6月頃 イギリス、日本への同盟打診
1901年11月 伊藤博文前首相、日露協商締結へロシアへ
1901年12月7日 桂太郎首相、イギリス同盟へ政策転換
1902年1月30日 日本イギリス同盟を結ぶ
1902年4月8日 公収東三省条約(「満洲」還付条約
1902年10月8日 第1次撤退(遼河以南の撤兵、鉄道還付)
1903年4月8日 ロシア第2次撤兵を無視
1903年7月 桂首相、伊藤博文を枢密院議長に更迭
1903年10月8日 日清追加通商航海条約改正
1904年2月 日本、ロシアの電信回線切断
1904年2月7日 ロシア、日本への譲歩案提出
1904年1月21日 大韓帝国、局外中立を宣言
1904年1月 佐世保と木浦(韓半島南西端)の電信回線開通
1904年2月4日 御前会議で開戦を決定。
1904年2月6日 日本韓国戦争開始
1904年2月8日 仁川(当時は済物浦(チェムルポ))に上陸
(1904年の제물포(jemulpo):今の仁川)
1904年2月9日 第12師団が漢城を占領
1904年2月10日 明治天皇、ロシアに宣戦布告
時系列で並べると、日本,韓国,イギリス,ロシアの動きが良く分かる。
① 日本イギリス同盟は、南アフリカ戦争の最中に結ばれている。イギリスの意向打診は八国聯軍侵略戦争の最中である。しかも伊藤博文が全権でロシアに日本ロシア協商の交渉に行っている時である。どうしてロシアの南下政策が日本ロシア戦争の原因と言えるのか?
② 大韓民国は中立国政策を日本に依頼するのだが、日本は拒絶した。日本韓国戦争を始め、鎮海湾(チネマン)を鎮圧。戦争の端緒とした。
③ 結局、日本の政策転換が日本ロシア戦争の原因である。
8月22日に第1次日韓協約を韓国に結ばせ、「日本政府の推薦者を韓国政府は財政, 外交の顧問に任命しなければならなくなった」。さらに8月23日「日本韓国議定書」を結ばせ、日本の軍事占領を合法化し、韓国の協力を義務付けた。
この韓国侵略への批判がない。
(執筆者作図。無断転載を禁じる)
さて、日本ロシア戦争は2月8日夕刻、旅順口外でロシア艦2艦に自沈,自爆を余儀なくさせた。日本の宣戦布告は2月10日である。
(旅順口)
日清戦争時と同じく日本の宣戦布告前の奇襲である。台湾出兵以来、日本の侵略の常套手段である。その言及がない。
陸軍は1904年8月28日~9月4日の遼陽会戦で「引き分け」終わった。山形有朋参謀総長は戦勝の見通しを持てなくなっていた。1905年5月27~28日の日本海海戦で勝利したが、6月1日講話斡旋をアメリカにに申し込み戦争から逃げた。
アメリカ大統領T.ローズヴェルトは6月9日両国に講話勧告をおこなった。
手塚優紀子氏の言うように、アメリカが日本海会戦の結果を見て仲介に入ったのでない。
ではサハリンについて。1905年3月22日の大本営で侵略意図があった。6月17日、(講話勧告後!)明治天皇が裁可した。7月7日、サハリン南岸のアニワ湾に日本軍が侵攻、ロシア軍は7月31日降伏した。日清戦争講和会議中に澎湖諸島を侵略したことと同じく、日本の本質を良く示している。
結論は67頁のそれでよい。
探究活動は、
日本ロシア戦争の勝敗の行方、アメリカ大統領の講話勧告の状況が良い。日比谷焼き打ち事件も考察させる。
詳細は、拙著「アジアから見た日本の侵略:明治維新から東南アジア占領まで / 2020年2月 / 宮帯出版社 / 36~42頁」を見よ。




