はじめに
65歳の時、高校世界史の教員生活40年を終えた。高校世界史の授業をした時、子どもたちと共に学んだ世界史のうち近代部分を発行できた。「アジアから見た日本の侵略」2020年2月10日刊である。
次いでCOVID-19で海外に行けなくなったので、国内で世界史を考える研究をした。
2023年12月18日刊で、住まいから2時間の長野県木曽谷へ行き、中国人・朝鮮人強制連行の実態を知った。
そうなると次は、中国現地での「日本の俘虜収容所」研究となる。朝鮮人には捕虜収容所は必要なかった。日韓併合で朝鮮半島自身が収容所であった。俘虜が大量に発生したであろう大陸打通作戦(アメリカ空軍基地殲滅作戦)を考察した。この作戦は、1944年1月24日、昭和天皇が決定している。忘れるなかれ‼ 1947年5月2日まで、つまり1947年5月3日日本国憲法公布まで戦前の憲法が通用し、天皇主権であった。
この作戦は、皆さんが考えられるような、中国大陸の敵勢力を排し、東南アジア(当時の日本軍の用語は「南方」)と連絡するものでなかった。「結局敵航空基地の覆滅一本に徹底し、且つこれに作戦要領を合致させることとして(東条英機陸軍)大臣の了解を得た」(湖南の会戦 / 10頁)
日本軍の作戦開始は1943年4月18日であった。中国大陸アメリカ飛行場爆撃命令である「大陸打通作戦」は5月25日に洛陽城を陥落させた。制空権がないため、洛陽戦以外は全部夜戦。4月26日東条英機参謀総長は、天皇から以下の言葉を下賜された。「この度(たび)の作戦は よくやって洵(まこと)に満足に思う 『支那』派遣軍総司令官にも此の旨(むね)申し伝えよ」(河南の大戦 / 511頁)。
中国軍民の死者 37,500人。俘虜 15,000人。日本軍死者 850人。戦傷者 2,500人。一兵たりとも逃すまいとし、逃亡路である西南西方面の洛河上流に三度攻撃している。洛陽の北面は黄河で止まる。南は洛河のほか南西から来る伊河がある。この川には有名な龍門の石窟寺院遺跡がある。この伊河が、洛陽決戦の前に城外にいた中華民国中央軍の退行路である。
日本軍の洛陽攻撃は、4月24日13時から、夜間、翌25日8時半までかかり、包囲した上で西面から攻め落としている。この洛陽の俘虜が、鹿島組の木曽谷御岳発電所の徴用として来ている(中国人・朝鮮人強制連行 / 123頁)。
1. アメリカの日本爆撃
アメリカは、開戦から4ヶ月後、既に1942年4月18日にB-25でドゥーリトル爆撃を行っている。更に1943年11月25日、B-25 14機が中国大陸から日本植民地台湾総督府新竹飛行場を爆撃している。中国大陸からの爆撃は、1944年1月初めから14日までに 12回 のべ82機。主に漢口に通じる長江の船舶、東中国海の船舶、台湾省高雄・塩水(現台南市)を爆撃している。
B-29が中国大陸にアメリカ軍が実戦配置したのは、1944年6月5日、イギリス領インドからである。アメリカ第20航空軍(戦略爆撃軍)のウォルフ中将は中国におり、1944年6~9月(第1期)は、日本製鋼工業の弱点であるコークス炉に576回。港内船舶に47回、都市攻撃を100回と考えていた。第2期は10月以降で飛行機工業を指向する予定だった(防衛庁戦史叢書 / 1号作戦;2:湖南の会戦 / 177頁)。
6月15日午前、68機が中国成都を発し、うち47機が八幡製鉄所を爆撃した。爆撃されたのは爆撃されたのは1機のみ。20機は初期トラブルで墜落した(東京大空爆 / 68頁)。
もっとも1944年6月19~20日のマリアナ沖海戦に、日本は破れ、アメリカ軍は太平洋サイパン島から爆撃が可能になり、日本爆撃作戦は太平洋に移った。
2. 台湾空襲
全爆撃回数は、81件に及ぶ。地点が分かるが死傷者の数・家屋損壊数の分かる表にした。
例えば1944年10月12~18日の爆撃では、4800以上の爆弾・710の焼夷弾を投下している。中でも台北州で合わせて170人死亡(台湾人137人・日本人23人・その他10人)と記している(二次大戦下的台北大空襲特展 / 33頁)。
全焼・半焼の数から、焼夷弾の使用は明らかである。
一番ひどい爆撃は1945年5月31日である。
1945年5月31日の空爆で有名なのは、台北大学病院原五病棟である。現存している。
3. 日本の大爆撃
問題は、日本はひどい空襲だったではなく、なぜそんな爆撃を受けたか、である。
まず日本の中国への無差別爆撃は、1938年10月8日の偽満国の瀋陽東塔飛行場から錦州への爆撃が最初である。
次いで1937年7月7日の七七事変(盧溝橋事件)から始まった。八一三事変(第2次上海事変)後の大村飛行場(長崎県)・台北松山飛行場(台湾総督府)からの上海, 南京への爆撃があった。
それに次ぐ3度目が、重慶大爆撃である。それは、1938年2月~1944年12月19日の長期間にわたる無差別爆撃である。1939年の爆撃については、以下のようにまとめた(アジアにおける日本の侵略 / 128頁)。
重慶大爆撃の中で、ひときわ目立つのが、この1939年5月3,4日の爆撃と1941年6月5日の爆撃である。1939年5月3,4日の爆撃は、著しい死者重傷者, 家屋損壊を生んだことである。
1941年6月5日の爆撃は、「夕方18時より夜の23時頃まで5時間9分以上爆撃が続いた」(重慶大爆撃の研究 / 126頁)。つまり長時間防空洞に人々がいたことによって、多数の市民が呼吸困難になったことである。1,115人が死亡した。
6月5日の爆撃には、次の2枚の写真が有名である。
これは、較場口で呼吸困難になった人びとで、17時9分以降の写真である。LIFEのカール マイダンスがスクープし、全世界に流れた写真である。
これは、十八梯の上で撮られた写真である。18の梯子(はしご)という意味である。
実際に訪れた時の写真である。階段上部の右側に防空壕がある。更に左側を木々の位置まで登ると上記の写真の位置にでる。十八梯のバス停である。まだ百段以上階段を下りて長江である。
重慶は長江がUターンするカーブの上にある市街で、市街から長江まで、それぐらい段差がある。現地に行かないと分からない。
4. 日本の焼夷弾使用
第一次世界大戦後、日本海軍はイギリスから焼夷弾(語意;焼いて殲滅する弾頭)を購入した。1935年頃から陸上攻撃用として開発研究を進めた。焼夷弾は、1939年からの重慶爆撃に使用されている。
海軍の98式7番6号爆弾 66.2kg。1939年以前に計画され、実戦に用いられた。弾体直径240mm。その2型は、アルミニウムの金属酸化物還元による高温発生する装置を中央に配置、17.8kgの子弾4発は、周囲に固形油9.78kgを充填した。投下後200mmのコンクリートを貫通後、内部炸薬を用いて子弾を射出した。子弾の瞬発信管が作動すると放出薬が起爆する。この起爆によって、弾体に設けられた孔から2m四方へと火のついた固形油が吹き出した(日本海軍の爆弾 / 189頁)。
では、その1939年に行なわれた重慶大爆撃から、焼夷弾数を抽出した。
全爆弾個数2830顆(爆弾の助数詞)のうち415枚(焼夷弾の助数詞)で全体の15%が焼夷弾であった。焼夷弾の打たれていない空爆は数に入れていない。
5.日本の空爆
1994年6月15日(八幡製鉄所爆撃と同日)、アメリカ軍はサイパン島に上陸した。7月9日アメリカ軍は占領を宣言。8月11日 ティニアン、8月11日に日本軍の組織的抵抗は終わっている。
図中赤線は飛行場
マリアナ諸島からの日本爆撃は、サイパン島・ティニアン島・グアム島の5飛行場から行われた。硫黄島は不時着の救援飛行場であった。インド=カラクブルの爆撃軍司令部から日本本土爆撃の任務は、サイパン=グアム爆撃軍司令部に変わった。
1944年11月24日をマリアナ諸島からのB-29による東京への初爆撃も効果がない。司令官アーノルド大将は、前司令官を更迭しルメイ, C.E. を司令官とした(東京大空爆 / 99頁)。焼夷弾爆撃をアメリカ軍は始めた。最初の焼夷弾による試験的爆撃は、1945年1月3日の名古屋空爆であった。2回目は神戸空襲で2月4日。3回目は東京空襲で2月25日であった(日本の都市を焼く尽くせ / 28~38頁)。
(戦略東京大空襲 / 口絵)
1945年3月10日以降、B-29の初期トラブルを克服したアメリカ軍は。日本各地を爆撃する。
おわりに
なぜ日本は空爆されたのだろう。日本人が被害者意識だけで歴史を語ってはいけないということだ。沖縄の「集団自決」という事件は、「軍隊によって強制された自死」であった。従軍慰安婦は正に軍 性奴隷制のことであって、決して単なる慰安婦ではない。中国人・朝鮮連行は徴用ではなく「強制連行」であった。我々に課せられた課題は大きい。が、一つづつ解決していかなければならない。「空襲された、空襲された」と言うでない。日本が先にやったのだ‼
空襲をしたことを忘れて、空襲されたと言うな‼
文献:
アジアから見た日本の侵略:明治維新から東南アジア占領まで / 高堂眞一 著 / 京都:宮帯出版社 / 2020年2月
河南の会戦 / (戦史叢書;1号作戦:1) / 防衛庁防衛研修所戦史室 著 / 東京:朝雲出版社 / 1967年3月
河南の会戦 / (戦史叢書;1号作戦:1) / 防衛庁防衛研修所戦史室 著 / 東京:朝雲出版社 / 1967年3月
湖南の会戦 / (戦史叢書;1号作戦:2) / 防衛庁防衛研修所戦史室 著 / 東京:朝雲出版社 / 1968年5月
重慶大爆撃の研究 / 潘 洵 著;徐 勇, 波多野澄雄 監修;柳 英武 訳 / 東京:岩波書店 / 2016年2月
戦略・東京大空爆 / Kerr, E. B. 著;大谷 薫 訳 / 東京:光人社 / 1994年12月
中国人・朝鮮人強制連行 / 高堂眞一 著 / 京都:宮帯出版社 / 2023年12月
二次大戦的台北大空襲 / 台北二二八紀年館 著 / 中国:台北 / 2007年12月
日本海軍の爆弾 / 兵頭二十八 著 / 東京:四谷ラウンド / 1999年5月
日本の都市を焼き尽くせ:都市焼夷空襲はどういう計画で, どう実行されたか /工藤洋三 著 / 自家本 / 2015年11月
百度百科 / 重庆大轰炸 / 2024年6月23日閲覧