では、第16回目の授業のつづき
2-13. 日露戦争とアジア(3)
だいたい閔妃暗殺から日露戦争、韓国併合を1時限で教えようと言うことに無理がある。
1900年8月 : 韓国皇帝の趙秉式(チョビョンシク)公使による
中立国提案を日本が拒否。
1904年1月21日: 韓国、局外中立宣言。日本、無視。
1904年2月6日: 日本韓国戦争開始
1904年8月22日: 第1次日本韓国協約(日本政府推薦者を韓国は
財政,外交の顧問に任命しなければならなかっ
た。事実上の顧問による政治)
1904年2月23日: 日本韓国議定書(第4条で軍事占領を合法化)
(この間、日露戦争=日本ロシア戦争)
1905年4月10日: 明治天皇「韓国保護権確立の件」を裁可
1905年11月17日: 伊藤博文、韓国保護条約を強要するが高宗
拒否。「調印」したとされる(皇帝未署名)。この
「条約」には日本では題名がない。韓国では乙
巳条約(ウルサジョヤク)という。
1907年4月20日~: ハーグ密使事件
1907年7月17日: 伊藤博文統監は高宗を譲位させ、純宗(スン
ジョン)を皇帝とする。純宗は1899年9月8日の「毒
茶事件」(韓国宮廷内親ロシア派の皇帝弑逆陰
謀事件)で判断能力を欠いていたと考えられる。
(写真は韓国統監府、西大門監獄にて)
1907年7月24日: 丁未協約(チョンミヒョビャク)を強制し、統監の
韓国施政権を確立。韓国軍隊を解散。
1907年7月30日: 第1次日露協約で、ロシアは日本の韓国支配を
認め、ロシアは黒竜江省, 外モンゴル支配を認め
られた。
1907年7月~ : 義兵運動
1909年7月6日: 「韓国併合」を閣議決定し、天皇も裁可。
1909年7月12日: 伊藤博文、「韓国司法及び監獄事務委託に関
する覚書」に調印させる。
1909年7月31日: 伊藤博文、「軍部廃止, 親衛隊新設及びこれに
付帯する件」を韓国皇帝に出させる。
1909年10月26日: 伊藤博文、安重根(アンジュングン)に哈尔滨で
射殺される。
1910年6月3日: 「併合後の韓国に関する施政方針」を閣議決定。
大日本帝国憲法の効力の及ばない地域とした。
1910年7月4日: 第2次日露協約。アメリカのノックス提案拒否。
1910年8月22日: 寺内正毅第3台統監、韓国駐箚軍を漢城に集
結。「韓国併合に関する条約」を強制する。しかし
皇帝は署名拒否。「韓国強占」という。
(3) 韓国併合
アンジュングンの写真があるが、このままでは著作権違反。出所を明らかにせよ。
朝鮮総督府は韓国によって忌まわしい過去を思い出したくないと破壊されたにもかかわらず載せる根拠を示せ。
(いずれも私の取材記録)
だいたい、一国を併合しておきながら、そのことの反省が見られない。歴史は、勝海舟, 報徳秋水や石川啄木の感傷に耽っているものではない。事実を淡々と述べ、その結果を考えるのは子ども達自身である。
探求学習は、
日韓基本条約の第二条:1910年8月22日以前(その日を含む)に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。が、良いだろう。
これで、70頁までの考察を終えた。2022年に始まる「歴史総合」の教材としては、余りに陳腐である。