阿片戦争 : 新装版 ; 1-4 / 陳舜臣 著 / (講談社文庫) / 2015年9-11月 / 初版は1973年

 

陳舜臣は1834年のネーピア事件の評価をしている(1-580頁)が、1839年3月10日欽差大臣林则徐(línzéxú)が广州に赴任してから事態は変わった。虎门(hǔmén)で海水に大量の塩を入れアヘンを放り込み、さらに生石灰を入れアヘンを失効させた。実際に行う時は、海水溜池の作業場を板塀で囲んだ。
鴉片戦争博物館にて
 
そもそもアヘン取引をイギリスがなぜしたかが問題である。人を廃人にするものを売って、中国から買い付ける茶,生糸の代金である銀を再びイギリスが収得するためであった。悪を承知で売買していたのだ。
 
公行(gōng xíng)が、アヘン取引の主役であった。もちろん、アヘン禁令が出ているから、陸上で取引できない。そこで、イギリス,公行は、海上に鴉片母船を設けた。公行で鴉片購入券を買い、鴉片母船でイギリスからアヘンを引き取るわけである。
(鴉片战争博物馆にて)
イギリス人所有の鴉片、20,283箱が没収された。林则徐は一箱につき茶葉5斤(3kg)を褒美として与えている。イギリス商務総監督エリオットが折れた。
 
ところが1839年7月7日、インド人水夫(シパーヒーとインド史で学ぶ)が、中国人一人を殺したのである。これがアヘン戦争の発端になる。(2-408頁)
 
ここに至り、現在の香港の地名が出てくる。虎门以北に入れないイギリス商船団は九龙(jiǔlóng)半島尖沙咀(jiānshājǔ)を船溜まりとしたのである。
(現在の尖沙咀)
 

アメリカ船は鴉片を扱わないとして、广州に入ることを認められていたが、イギリス船はこの地でアメリカ船に商品を売っていたのである。もちろん鴉片も!

 
イギリス商務総監督エリオットは澳门(aomén=アモイ)在留の全イギリス人を、1839年8月26日までにイギリス船団に移らせた。
9月3日林则徐は澳门に行っている。
(澳门にて)
8月30日軍艦ボレジ号が来た。9月4日、九龙(jiǔlóng)半島尖沙咀jiānshājǔ)を船溜まりとしていたイギリス商船団への食糧補給をもとめ、九龙沖で艦ボレジが清軍船3隻を砲撃した。
この後、沿海村民がイギリス船に食料品を売りに行くのは暗黙の了解とされた。
 
ところが、1939年10月11日に澳门沖に、イギリス船トマス カウツ号が着いた。澳门同知(官僚)に広州行き牌(許可証)をもらい15日には黄埔に入った。ここに至り尖沙咀での沿岸村民の食糧供給は受けることは難しくなった。
さらにロイヤル サクソン号も広州行きを望んだが、エリオットに阻止され、やむなく止めた。
同じころ軍艦ヒヤシンス号が来た。
 
エリオットはいよいよ戦闘の準備をする。虎门南方川鼻(chuānbí)島西方の沙角(shā jiǎo)炮台に1939年11月3日衝突した。これを「川鼻海戦」という。
清側26隻被弾。イギリス側退却。
(Destroying_Chinese_war_junks,_by_E._Duncan_(1843))
 
この絵から、ジャンク船でイギリス蒸気船に勝てないと子どもたちに教えたが、清側は周到な準備を陸上で炮台として構築していたので、一概にイギリス軍が強いとは言えない。