昨日、陸軍参謀川上操六:日清戦争の作戦指導者 / 大澤博明 著 / 吉川弘文館 / 2019年2月を読んでいた。川上操六の旅順大虐殺と第二次甲午農民戦争(カップノンミンジャンジェン)鎮圧による虐殺責任を知りたかったからである。

期待は、物の見事にはずれた!

1. 民衆の生活破綻の責任を棚にあげている。日本の横暴である。1868~1893年に日本が得た金の総額1,230万円のうち、68%が朝鮮からの略取であった。しかし朝鮮政府はこの状況に無関心であった。大澤はこれを「元来日本では、朝鮮での反乱は直接的には地方官の収奪に起因する」として「近代朝鮮と日本 / (岩波新書) / 趙景達 著 / 岩波書店 / 2012年」を批判するが、論拠を明らかにしていない(93頁)。

2. 民衆が変革を期待したのは、全琫準(チョンポンジュン)ら東学(ドンハッ)の中の非暴力主義を否定する一派であった。彼らは農民たちを率い1894年5月31日全羅道(チョルラド)全州(チョンジュ)に無血入城した。しかし政府軍が砲撃を開始し、農民軍は政府軍を抜けず和約した。これを第一次甲午農民戦争という。

3. 1894年6月5日に日本は大本営を設置し、日本は制度上の戦時に移行した。

日清両軍の朝鮮派兵を知り、農民軍, 政府軍とも戦争の危機を悟ったのである。しかも彼らは、日清両軍の朝鮮派兵で停戦したのである。

4. 日清共に朝鮮国内に軍隊を駐留させておく根拠が失われ、朝鮮政府からは両国に対して撤兵が要求された。ここで日本政府は清国政府に対し、「朝鮮の内政の改革を日清両国が共同で行うこと、この間は両国の軍隊を朝鮮内にとどめること、もし清国が共同での改革に合意しなければ日本が単独でこれを行うこと、という内容の提案を行う」(歴史資料センター)。これを大澤は、「日清共同朝鮮内政改革」(67頁)という。しかし清国側からは、農民蜂起が既に鎮圧されている以上まずは撤兵すべきであり、また、朝鮮の内政改革は朝鮮自らが行うべきである、という回答が6月22日に日本に来る。これを大澤は、「清の朝鮮併合策」というが、これも論拠がない(68頁)。日本は撤兵を拒否することを清国に伝えると共に、仁川への上陸を終えていた混成旅団の先発部隊4,000名の一部を漢城方面に移動させ、待機中であった後発部隊の輸送も再開させる。https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p002.html

5. 1894年7月23日戦争で、日本は景福宮(キョンボックン)を占領し日本は大院君(テオォグン)執政下で金弘集(キム ホンシッ)を中心にする親日開化派政権を樹立させた。これを大澤は、「混成旅団は、7月23日朝鮮王城を包囲し朝鮮守備隊と交戦し王宮を占領して武装解除し、29日には成歓(ソンヘン=原文に引用者が追加)で清軍を破った。日本政府は8月1日、清に対して宣戦布告を行った。」(97~98頁)としか書いていない。

何たる歴史認識!宣戦布告前に日本は開戦しているのだ!

7月27日に新たな親日開化派政権は甲午改革を始め、8月20日の日朝暫定合同条款,26日の大日本大朝鮮両国盟約条約で、日本は朝鮮に内政干渉,利権獲得,戦争協力を強要した。しかし、およそ日本軍が進軍するところでは非協力的であり逃亡も常態化した。これを大澤は、「清軍の掠奪」とする(115頁)。さらに「朝鮮家屋や旅館は、狭くて不衛生なので天幕を張って露営した方がましであった。現地の食事も、唐辛子とニンニクを多用するので口に合わなかったし、蝿が黒山のようにたかった。飲料水も不足し水質も良くなかった。」(119頁)と書く。完全な朝鮮蔑視である。

どうして日本軍に非協力的かを解明していない。だいたい「兵站線設置は試みられたが平壌(ピョンヤン)攻撃以前にはほとんど機能しなかった。」(121頁)というなら、掠奪していたとしか考えられない。

5. では、1894年7月25日以降の第ニ次甲午農民戦争である。農民軍が全羅道一円にあらわれ自治を施行した。これを都所体制という。11月上旬の秋収穫の完全な終獲後、南部の農民軍に全琫準は北上を命じた。目的は和約を合意した以前の政権でなく、反日と反親日開化派政権を倒すことであった。

日本は執拗に農民軍鎮圧を国王と開化派政権に強要し、高宗(コジョン)は10月24日に鎮圧命令を日本から命じられた。11月20日、日本軍とその指揮下の朝鮮軍との戦闘が開始された。忠清道(チュンチョンド)・全羅道の農民軍は、西南島嶼部に追い詰められ、殲滅(せんめつ)された。黄海道(ファンヘド)では少なくとも50,000人殺された。日本陸軍参謀本部次長川上操六は、「ことごとく殺戮(さつりく)しなければならない」という残虐な命令を下していた。これを大澤は、「東学党」が日本軍の兵站線を襲撃したので東学党を攻撃したのであり、本来の意味でのジェノサイドとは無関係である。」とする(184頁)。

しかし第二次甲午農民戦争は、明治維新後の「日本が海外で最初に行った民衆大虐殺事件である。明治の「栄光」は朝鮮の「屈辱」であり、まさに朝鮮民衆の悲劇の上に構築されたものであった。

6. さらに1895年11日21日~25日まで「旅順虐殺事件」が起こった。捕虜を取る意思がほとんど無く、軍人と民間人を無差別に村落焼き討ちまで行い、11月28日付イギリス紙「タイムズ」は無差別の虐殺の情報を伝え、12月アメリカ「ワールド」は「日本人の大虐殺」の見出しで記事を掲載しヨーロッパ・アメリカの知るところとなった。これを大澤は、「清の残虐な戦闘行為が日本人将兵をして復讐心を抱かせ、いわゆる旅順虐殺の背景となった。戦場で戦友の虐殺死を見た兵士が復讐心をたぎらせるのは通常の反応である。」(175~176頁)として合理化する。一体復讐心を持てば大虐殺をしても良いのか? しかも民間人も、である。

7. 最後に1895年10月8日の閔妃(ミンビ,後の明成皇后(ミョンソンワンフ))暗殺について。金文子と趙景達の川上操六の批判を「いずれも推測の域を出ない」とし、以下取り扱わない(217~218頁)。「少なくとも三浦梧楼は、陸軍参謀本部次長川上操六の意を受ける形で閔妃虐殺を実行したことは間違いない」(近代朝鮮と日本 / (岩波新書) / 趙景達 著 / 岩波書店 / 2012年 / 129頁)を大澤は否定できない。閔妃暗殺は一国の公使が赴任国の王妃をほぼ公然と虐殺するということで、あり得ない事件である。閔妃暗殺部隊は、30人余の日本人大陸浪人であった。景福宮内の乾清宮を襲い閔妃を惨殺し、さらに北側の松林(現在大統領官邸青瓦台)に運び、薪を積み石油をかけて焼き捨てた。政権は大院君に帰し、金弘集政権の閣僚は大幅に入れ替えられ閔妃虐殺をうやむやにしようとするが、如何せん目撃者がいた。政局は混乱を極めた。