陳独秀は、自ら上海で創刊した雑誌『新青年』第1号巻頭言で、「敬んで青年に告ぐ」(1915年9月)を書いた。新文化運動の始まりである。
敬国青年

窃以少年老成,中国称人之语也;年长而勿衰(Keep young while growing old),英、美人相勖之辞也,此亦东西民族涉想不同、现象趋异之一端欤? 青年如初春,如朝日,如百卉之萌动,如利刃之新发于硎,人生最可宝贵之时期也。青年之于社会,犹新鲜活泼细胞之在人身。新陈代谢,陈腐朽败者无时不在天然淘汰之途,与新鲜活泼者以空间之位置及时间之生命。人身遵新陈代谢之道则健康,陈腐朽败之细胞充塞人身则人身死;社会遵新陈代谢之道则隆盛,陈腐朽败之分子充塞社会则社会亡。
准斯以谈,吾国之社会,其隆盛耶? 抑将亡耶? 非予之所忍言者。彼陈腐朽败之分子,一听其天然之淘汰,雅不愿以如流之岁月,与之说短道长,希冀其脱胎换骨也。予所欲涕泣陈词者,惟属望于新鲜活泼之青年,有以自觉而奋斗耳!
自觉者何? 自觉其新鲜活泼之价值与责任,而自视不可卑也。奋斗者何?奋其智能,力排陈腐朽败者以去,视之若仇敌,若洪水猛兽,而不可与为邻,而不为其菌毒所传染也。
呜呼! 吾国之青年,其果能语于此乎! 吾见夫青年其年龄,而老年其身体者十之五焉;
青年其年龄或身体,而老年其脑神经者十之九焉。华其发,泽其容,直其腰,广其膈,非不俨然青年也;及叩其头脑中所涉想,所怀抱,无一不与彼陈腐朽败者为一丘之貉。其始也未尝不新鲜活泼,寝假而为陈腐朽败分子所同化者,有之;寝假而畏陈腐朽败分子势力之庞大,瞻顾依回,不敢明目张胆作顽狠之抗斗者,有之。充塞社会之空气,无往而非陈腐朽败焉,求些少之新鲜活泼者,以慰吾人窒息之绝望,亦杳不可得。
循斯现象,于人身则必死,于社会则必亡。欲救此病,非太息咨嗟之所能济,是在一二敏于自觉、勇于奋斗之青年,发挥人间固有之智能,决择人间种种之思想,——孰为新鲜活泼而适于今世之争存,孰为陈腐朽败而不容留置于脑里,——利刃断铁,快刀理麻,决不作牵就依违之想,自度度人,社会庶几其有清宁之日也。青年乎!其有以此自任者乎?若夫明其是非,以供决择,谨陈六义,幸平心察之。(以后略)(雑誌『新青年』第1号巻頭言より)

 

「私が思うには、『年若くして老成する』は、中国人が人を誉める言葉である。『年を取っても衰えるな Keep young while growing old.』は、英米人がお互いに励まし合う言葉である。これも東西民族の発想が異なり、現象が違うことの一端であろうか。青年は初春のように、朝日のように、花々が萌え出るように、研ぎたての刃の鋭さのように、人生のもっとも貴重な時期である。社会における青年は、人体における新鮮で活発な細胞のようでもある。新陳代謝は、陳腐老朽なものを絶え間なく自然淘汰の道へ向かわせ、新鮮活発なものへ空間的な位置と時間的な生命を与える。
人体は新陳代謝の道に従えば健康になり、陳腐老朽なものが細胞人体に充満すれば、人体は死ぬ。社会は新陳代謝の道に従えば隆盛になり、陳腐老朽した人々が社会に充満すれば社会は亡ぶ。
これに従って述べると、我が国の社会は隆盛しているだろうか、それとも亡びようとしているのだろうか。[それは]私が言うには忍びないものである。……私が泣きながら述べようとするのは、ただ新鮮活発な青年に自覚して奮闘することを望むことだけである。……ああ、我が国の青年に、果たしてこのようなことを語ることができるであろうか。(後略)」。


北京大学学長であった蔡元培は文学科長に陳独秀を抜擢した。

胡適の『文学改良芻議』(1917年)に対し陳独秀は「文学革命論」で応答し、文学革命の急先鋒として胡適を讃えた。1918年には魯迅の「狂人日記」が掲載された。
1919年五四運動直後、『新青年』は、陳独秀の逮捕もあり半年休刊した。彼の憤りはすごい。陳独秀は1920年2月には上海に移り、共産主義関係の活動に力を注ぐ。問題はコミンテルンである。ヴォイチンスキー(Г. Н. Войтинский)らは「中国は反植民地であるからと規定し、反帝国主義闘争、半植民地闘争が重要」として、中国国民党への援助に力を入れる。


『新青年』8巻1号(1920年9月)の「談政治」で、「陳独秀も『深山人跡未踏の所に逃れないかぎり、どのみち政治のほうからやって来る』と、同誌発刊当初の『政治を語らない』主張の変更を表明する」。最後の結論では、『革命の手段で労働階級(すなわち生産階級)の国家を建設し、対内対外のすべての略奪を禁止する政治法律を創造するのが現社会に第一に求められているものであることを承認する』とし、陳独秀のボリシェヴィキへの方向性が表明され、『新青年』は共産主義グループの機関誌化したことで同人たちと分裂し、翌年、事実上の廃刊となる」(130頁)。


1921年6月コミンテルン代表としてオランダ共産党員のマーリン(Maring)を含めて中国共産党第一回大会が上海で開かれ、陳独秀が総書記に選ばれた。

このころ、資本主義から社会主義への楽観的進化論を抱いた孫文とヴォイチンスキーが、陳独秀に勧められて会っている。以降、国共両党はともにロシア革命やコミンテルンの息がかかった「兄弟」政党として、イデオロギー的に不一致ながら複雑な関係を持つことになる。
1922年に上海で陳独秀、李大釗らのはたらきかけで国共両党系の大学として、上海大学(東南高等師範を改組)を誕生させ、五三〇運動の拠点ともなった。

 

1923年、ソヴィエト中国大使に任命されたヨッフェ(A. A. Иоффе)との間で、中国国民党が中国共産党と協力するという仮定から、中国国民党を支援する協定に署名した。つまり、共産党員も国民党の民族革命活動に参加、支援すべきだと考えた。そこで「党外合作」を求めた陳独秀ら共産党員の一部は、これに反対した。


1927年、蔣介石は四一二事件(日本の高校世界史では上海クーデタと学ぶ)を起こし、国共合作を崩壊させ、南京国民政府を樹立した。共産党は大打撃をうける。当時、情勢の見えないスターリンやブハーリンが中心になったコミンテルンは、武漢国民政府の反動化を懸念したトロツキーに対し、逆に武漢国民政府を左派とみなし、武漢政府を通しての土地革命まで中国共産党に要求した。
だがコミンテルンの指示による中国共産党の各地での武装蜂起の敗北も含め、責任はその批判者でもあった陳独秀の「右傾日和見主義路線」に帰され、1927年、陳独秀は総書記から下ろされた。

 

これ以降の陳独秀は、スターリン批判に終始し、中国共産党中央と対立を深めて行く。もともと「中国共産党の自立が必要だと考えていた陳独秀は、以来、トロツキーと中国革命をめぐって烈しい論争を展開していたスターリンを日和見主義的官僚と批判し、大衆の平和要求も軽視すべきでないとしたトロツキーの観点を評価する。当時にあって『労働者の祖国ソ連』擁護を中国共産党が掲げることにも反対するようになり、それは中国共産党中央の政治路線への反対を意味し、1929年に中国共産党の主要な創始者ともいうべき理論家、陳独秀は正式に除名されてしまう

(175-176頁)。(中国近代の思想文化史 / 坂本ひろ子 / (岩波新書 新赤版 ; 1607) / 岩波書店 / 2016年5月) 


こういう歴史的経過を見る時、陳独秀をトロツキストの一言で片づけて良いものか。スターリンの誤りの責任を取らされたのではないのか。陳独秀は理想主義に走ったのだけではないか。客観的なソ連の支援の必要な状況、中国国民党との合作による党勢の拡大などを考えなかったところで、切り捨てられたと考えられる。トロツキーと同じく切り捨てられた。