ルソン戦

 (岩波新書 黄版 ; 378) / 1987年6月 / 岩波書店
 

今日は、日本でのアジア太平洋戦争の開戦記念日である。

日本軍隊がどのようなものであったか、大変よく分かる、有名なルポルタージュである。

まず、日本のフィリピン侵略がある。1945年12月8日~1942年5月10日。日本軍の45日の予定は大幅に狂い、ルソン島最南端コレヒドール島占領までに150日かかった。

マッカーサーは "I shall return."の言葉を残し、オーストリアに脱出した。アジア太平洋戦争の転換点、ガダルカナル島での反抗は、この3ヶ月後に始まる。
日本ルソン島侵攻 
1945年1月6日にUS軍が再上陸し、1945年8月15が過ぎても戦闘が続いた。

では、日本軍の実態の一部を本文より。
「『玉砕』も禁じられ、『死ぬまで動くな』式の命令まで出されている。」(44頁)

「内の軍紀に目をうばわれ、『やむをえない』で外の軍紀をおろそかにすれば、敵が増えないのがおかしい。」(52頁)

「タコ壺肉攻は、張鼓峯、ノモンハン事件での火焔びん、爆雷攻撃に由来する。」(73頁)

「戦場における病院の移動は、動けぬ患者の死を意味する。放置するのではない。生きていてはいけないのである。死ぬ方法は二つある。自決と『処置』である」(81頁)

「日本軍では外国の軍隊と違って、兵はもちろん将校すら捕虜になったときの教育はおこなわれなかった。」(85頁)

「同僚の部隊の副官(将校と思われる-引用者注)は、金銀財宝を骨壺に入れて検問をパスし、捕虜収容所で肌身離さず抱えていたという。」(91頁)

「日本の軍隊は上(カミ)天皇の名において下は上に絶対服従、上官の命令が無条件に軍紀になる。途中の上官が自分勝手に命令を作っても、部下にとっては同じ陛下の命令だ。」(97頁)

「壊滅した部隊でも、生還は部隊長以下何名という話が多い。下級将校の生還者も司令部付きや本部付きが多い。……皇軍の統率体系や戦闘形式によるものだろう。」(105頁)

「ドーン、ドーンという砲音の合間に、時にひびくバーンという近い爆発音、もう言うまでもなく自決である。」(116頁)

「地獄絵巻が判然と展開したのは、むしろ八月十五日以降だった。」(135頁)

「ルソンの戦場において、見分したなかで、日本軍がおこなった最も非人間的な好意は、自軍の将兵に対する終戦後の『処置』とこの処刑ではなかったかと思う。」(171頁)

 ルソン戦

ルソン戦は9月中旬まで続いた。降伏しないからである。第14方面軍(在フィリピン軍)司令官山下大将の独断による投降だった。

プライベート保護のため顔を隠した。
ぼくは、今、ルソン島から来た少年に東・東南アジア史を教えている。横の女性は、タガログ語・イギリス語・日本語の分かる先生だ。でも、ボクの授業には1年間60回で3回しか、来てもらえない。ぼくは、ほぼイギリス語で授業を行っている。

侵略した側が、侵略された側の人々の孫に教えるのだから、心が痛む。
日本は琉球を含むすべての侵略した国に謝罪し、心からサポートしなければならない。