仏教の用語として、「空」「色」というのがあります。
これらは般若心経にも出てくる非常に根源的かつ重要な概念なので、今回はその解説をしたいと思います。
まず「空」は、一般的には実態がないことだと言われています。
つまり、簡単に言えば無になります。
一方で「色」ですが、これは逆に実態のある物質や出来事、つまりは現実のことです。
ですから、
色不異空
という言葉が般若心経に出てきますが、これは現実は無であるという意味です。
この説明では、どういう意味か全くわからないと思います。
しかし、その次のフレーズで
空不異色
という言葉が出てきます。
ここでのポイントは、なぜわざわざ逆にして言い直してるのか、ということです。
理由は、無は現実であるからです。
やはり、全くわからないかもしれません。
これを理解するには、まず本当のところ、無とは何かを考える必要があります。
実は無とは、別に何もない状態のことではありません。
私達の心の世界のことです。
一つ例を挙げましょう。
たとえば、お金に異常に執着して、お金がないと不安で仕方ない人がいます。
その一方で、逆に別にお金がなくてもうまくやっていけるという、何の根拠もない自信がある人もいます。
こういった人はお金がなくても幸せを感じることができます。
両者は、お金がないという現実自体は同じです。
つまり、空(心)の在り方を決めるのは自分がその色(物質や出来事といった現実)自体ではなくて、その色に対してどんな意識を持つか、ということが真実になります。
だからこそ、色不異空、色は空に他ならず。
となります。
ではその逆、空不異色はどうでしょうか。
確かに、自分が主観的にポジティブなことを思い込んでいたら、それがその人の世界の中では真実となります。
でも客観的には違うのであれば、それは「色」にはなりません。
であれば、
空不異色
は間違っているということになります。
がもちろん、これは間違いではありません。
どういう意味か。
心で思ったことを、物理的にも全て実現しているのが今の自分の人生であるということです。
これはスピリチュアルではよく言われることでありますが、ピンと来ない方もたくさんいると思うので、できる範囲内で説明をしていきたいと思います。
たとえば、自分が本気でお金持ちになりたいと思ったとします。
そうしたら、まず自分の行動が変わります。
行動が変わると、当然結果も変わります。
ですからこの時点で、強く願えば願うほどお金持ちに近づくのは理屈に適ってますよね。
ですが、実はそれだけに留まりません。
「空」、つまり心というのは、現象にも影響を与えます。
つまり、結果としてお金持ちになるような話を引き寄せたりすることもできるのです。
よく言われる引き寄せの法則というのは、このことを言っているのです。
すなわち、空は直接的に物質のみならず、間接的に現象にも影響を与えることができる。
また、仏教は受想行識という、人間の認識の課程も本来は存在しないとして否定しています。
これは色(物質)を受信(受)した意識や想像したこと(想)、行ったこと(行)を、自分の思考フィルターを通して認識(識)するという課程を表す言葉ですが、受想行識だとそれは色の延長線上なので間違いですが、空から色であれば、心が先なので真実になります。
受け身ではなく、自発であるということです。
よって、
空不異色
となります。
ただ、同時に知っておいて頂きたいことがあります。
それは、空の偏りについてです。
まず空は、精神エネルギーという概念に変換できます。
これはどういうことかというと、前回の記事で自分の感情、物質を含むあらゆる事象は全てエネルギーに変換できると説明しました。
そして個人が保有する総エネルギー量は、それぞれに異なります。
つまり、個人エネルギー(空)が変換された一つの形であるお金という物質(色)を多く持てば持つほど、そこに自分の保有するエネルギーを消費することになります。
そのぶん他のところに回せるエネルギー量が小さくなります。
要するに、あまりにも強く一つのことを願いすぎたり、願いのスケールが自分の保有エネルギー量と見合っていないと、結果としてその対象だけにエネルギーが偏りすぎて、他で様々な問題を抱えるようになるということです。
極端な話、エネルギーの借金をすることもできます。
こうなると、エネルギーが完全に不足した状態になるので、そのまま人生自体が破産してしまうこともあり得るのです。
自分の心の深いところに存在する本当の自分の意思である真我は、このことをわかっています。
だからこそ、たとえ自分の表面上の意識である小我が本気で望んでも、ブレーキを掛けてバランスを取ろうとすることがあります。
ですから、仮に自分が何かを本気で望んでいるのに手に入らない、ということがあったとしても、決して悲観する必要はありません。
これは全く悪いことではなく、もっと自分の器自体(保有エネルギー量)を上げることを先にしないと、あとで破滅しては元も子もないことをわかっている真の自分による働き掛けだからです。
ちなみに自分の総保有エネルギーの上げ方は、大きく二種類あります。
「奪う」と「与える」です。
「奪う」は即効性がありますが、将来的には失うことになります。
逆に「与える」は最初は失いますが、将来的には還元して返ってくることになります。
奪う行為で得たエネルギーは必ず失うので、それ以上のペースで奪い続ける必要があります。
が、それにはどうしても限界が来ます。
奪い続けた人物が最後に破滅するのは、よく聞く話ですよね。
特に今の時代は、それがより顕著です。
そしてここに、般若心経に繋がるところがあります。
奪ったもの「色」はエネルギーとして出ていき「空」になります。
奪う人は物欲「色」先行の人であり、こういった方々は思いやりや感謝の心「空」を備えていないので、結局は失うだけ、つまり無の意味の方の「空」になるということです。
つまり
色即是空
であり、逆に
与える行為は現実的には思いやりや感謝の心「空」であり、後にエネルギーとして入ってきて「色」、すなわち物質になるから
空即是色
となります。
これが、般若心経においてわざわざ逆から言う言葉が存在する理由です。
ですから仏教は、空を突き詰めた先、精神エネルギーの総量を高めていった先に悟りの域があり、その域では全てが
空不異色
である、ということを説いているのです。