野坂ひかり official blog “Sing with Piano” -3ページ目

野坂ひかり official blog “Sing with Piano”

ピアノ弾き語り“切実系”シンガーソングライター

久しぶりに文章を書いてみようかと思ったら、あれよあれよと感情が涌き出てくるので、慌ててしまい込もうとしても出来なくて、こうして書いてみています。
ご無沙汰しております、野坂ひかりです。

私がブログを更新出来なかった理由は、まあひとえにあの言葉かなぁと思い当たる理由があります。
去年の暮れにある飲み会にお誘いされて行った時に、ある方が私のブログを好きでいつも読んで下さっていて、ある同業者の方に私のブログの画面をスマホで見せた所、「うわっ!!長っ!!こわっ、気持ち悪っ!」と目の前で言われたことです笑
いや~人ってやっぱり人の言葉に傷付くんですよね、言った側は全然悪意無くても。笑
歯に衣着せぬ物言いがその方の魅力でもあるのでしょうが、私の心に知らない内にぐっさりと刺さっていた諸刃の剣は、私の得てしない所で、私の心を蝕んでいたようでした。
それでしばらくブログは書かなかったのです。

しかし今日、久しぶりに発熱した風邪から大分回復したかな、と思って
毎日更新しているTwitterにピアノ動画をアップするプロジェクト #ひかりのピアノ シリーズのゲーム音楽カバーを再開しようかなと思い、
ピアノを弾いたり、家族が皆ごはんを食べに外に出払っていて作り甲斐が無いため、休みだから思う存分寝てしまえ!!と寝ていても頭痛がしてしまって(人はサボっているとバチが当たるらしい)、
ふとTwitterで目に飛び込んできたのは、
ある作家さんの訃報でした。



AVライターでもあったエッセイスト・作家の雨宮まみさんが2016年突然亡くなっていたこと、私は全く知らなかったので心底びっくりしました。
(地下アイドル時代に知り合った地下アイドルでライターの姫乃たまちゃんが大好きなように(彼女もアダルト関係のお仕事もされている)、私はアダルト関係のお仕事をしている方に対して余り偏見は持っていなくて、寧ろ逞しいなぁと感嘆してしまいます)
以前雨宮まみさんの著作「女子をこじらせて」を読んで感動したことをブログに書いた時に、ファンの方から「大丈夫?」とTwitter等でメッセージを頂く機会があり、私は感銘を受けた作品であれば分け隔てなくそれをありのままに書いてしまうと思うし、寧ろ書きたいと思います。(なので今日は雨宮まみさんの著作のことも書きますね~そして私でさえちょっと書いただけでそう言うメッセージを頂いてしまうので、やはり自分で選んでそのお仕事している女子は逞しいし、やっぱりかっこよくて尊敬してしまう…)

彼女の「女子をこじらせて」は吉祥寺のある本屋さんで、仕事帰りにふらりと立ち寄り手に取って、思わず衝動買いしてしまった本でした。

多分同姓だから、物凄く共感してしまう赤裸々な文章。ご自身の人生をここまで書いてしまって大丈夫なのか、と思わせる程ありのままに赤裸々に、その文章に私はとてつもなく勇気付けられ、共感し、感動しました。
(事実この本の「こじらせ女子」と言う言葉がその年の流行語大賞にノミネートされたぐらい、世間から主に同姓の女子から、反響があったようです)

恐らく同姓の、女子だから、女子にしか分からないその強烈な「何か」がその本の中には書いてあったのです。
私も同じく漫画やアニメやゲームが好きだった所謂「オタク」系な幼少期をすごしていたので、雨宮さんも中学生で「アニメージュ」を買っていたくだりには思わず頷きました…。笑
私がコミケに一番行っていたのも、中学生の時だったなぁ。

「女子」と言うのは、難しい生き物です。
少女であり、女子であり、女性であり、そして母にもなれる、しかもタイムリミットや賞味期限なんて、あっという間に、驚く程早くやって来てしまう生き物で、それを世の中の目から示され、それを自分で意識しなくとも抱えて生きていく生き物なんです。
私は、このブログでどうしても子供を産みたかった気持ち
「どうしても子供を産みたかった気持ち、大好きな大切な家族のこと」
と言うブログ記事を以前書きましたが、言葉にして気持ちに真正面から向き合って、きちんと文章にすることで、その気持ちと折り合いを付ける事が出来ました。
今はそのブログ記事を書いた時のような、切羽詰まった感情は持っていないと感じます。

私は漠然とただ子供が産みたかったのではなく、“どうしても”と思うくらい大切な感情が存在していた事に、その事実に行き着いたからです。感情と言うのは、何も自然に涌き出たりはしません。対象との関わり合いの中で、生まれ育まれるものです。
自分の中の感情を見定めることによって、私は自分を理解し、そして自分を許すことが出来ました。

文章と言うのは、言葉と言うのは、そう言う力を持っていると思います。
だから私は、同業者に「気持ち悪い」と言われようとも笑、
自分の感情を言葉にして綴り、「ピアノ弾き語りSSW野坂ひかり」として音楽活動していく機会に恵まれ、発信出来る環境がある今この状況に、自分の言葉としてちゃんと表して、書いていきたいなと思うのです。

何かを“表現”する、“表現者”と言うのは、何かそう言う“性”のような気がします。
大好きな「テガミバチ」を書いた漫画家さんの浅田弘幸さんが、
「漫画家にライセンスはありません。
職業と言うより生き方そのものです。
一日24時間、他のことをしている時も漫画を描く感性で日常を見つめてしまう。
それが自然だと言う君は、本当の漫画家になるしかない。」
と言っていて、「これは正に全ての表現者に通ずる言葉だなぁ!」と感嘆して脳裏に焼き付いているのですが、つまりはそう言うことなのだと思う。

そして、雨宮まみさんの訃報を知って、私は本を読んで「いつか会いに行きたい、会って、“あなたの本の、この言葉に救われました”と目の前で本人に伝えたい」と思ったことがもう叶えられない、それなら、本を買って読んだ直後、調べたらTwitterのアカウントにたどり着いたあの時に、イベントに会いに行っておけば良かったのかなぁ、とぼんやり思ったのです。

私は極度のコミュ障なので、Twitterをフォローするのも恥ずかしくて、「いつかでいっか、まだ大丈夫」と自分の気持ちに蓋をする癖があるので、そんなすぐに会いに行くなんてことは叶わなかっただろうけど、私がその気持ちを持った数少ない表現者の方でした。

「この人に会いたい」なんて心から心底思えることが、その気持ちが消せないことが、この長いようで短い人生の中で、どれ程珍しいことか。どれ程難しくて、どれ程奇跡的なことなのか。

つまりは私もそう、急に居なくなってしまうかもしれないこと。
「いつか売れたら」なんて思い描いていたやりたいこと、やりたかったこと、出来ることが、「いつか」なんて来ない内に終わってしまうかも、絶ち切れてしまうかもしれないこと。
同じように、私を応援してくれているファンの人も、「いつかライブに行けたら」「いつか聞けたらいっか」と思っていて、それが永久に来なくなってしまう可能性も有り得ること。

だから、会いたい内に、逢える内に、会いたい人には、逢いたかった人には、会いに行って欲しいなぁと、逢える努力を怠らないで欲しいと、そして私も会いに行けるように頑張らないとなぁ、と思ったのです。

会いに行けなかったから、雨宮さんの作品の言葉に救われた人間として、今日このブログを書きました。
私もいつかこの世界から居なくなる時、居なくなったとしても、作品は残り続けるんです。
その為に、今、恥ずかしくない仕事をしておかないと、私から産まれてきてくれた私の子供のような“曲”を、曲達のことを、
何とかこの世界で解るように、必要な人の所へ触れてもらえるように、届いて力になれるように、“居場所”を今の内に、ちゃんと作っておかねばならないなぁ、と思いました。
私は私の音楽の、曲の母親にはなれたのです。
すごく好きな人と出逢って、その人の子供を産むことが叶わなかったとしても、この人生、捨てたもんじゃないな、と思えるのは、私から産まれて来た音楽のお陰です。
だからまだもうちょっと、踏ん張って頑張ろう。
結局いつの時代も母は強いものです。

私は母親のように、自分と強い繋がりを持つ存在がもし居たら、自分の人生きっと面白いだろうなぁと思ったから子供が欲しいと思ったんだ、と分かった時、母親と確執があったことも本気で赦せました。
母と喧嘩が多かった高校生の頃、その頃頻繁に、ふと頭の中で繰り返し流れるメロディーがあって「これ何の曲?」と母に聞いたら、「あんたがお腹の中に居た時に歌っていた子守唄や」と言われて、「やっぱりそう言うものなんだなぁ」と思ったことも。


それをピアノで弾いたら、動画を見た中国の方から「とても良い曲で曲名が知りたい」とメッセージをもらったり、最近毎日のピアノ動画でフォロワーさんが増えて、Twitterフォロワーが3000人を突破したり、海外の方も聞いてくれてるんだ、と思うととても嬉しいです。

今日は寝てばかりいたけど、マイペースでも、毎日、自分だけの路を、山を登るために頑張るのだ。



2018/04/07
野坂ひかり



昨日は、
野坂ひかり企画ピアニストライブ
@渋谷7th floor
本当にどうもありがとうございました◎




***

2018/1/28(日・昼)
@渋谷7th floor
野坂ひかりpresents. 
「トワイライトメロディー
vol.6 -pianistic!- 」
W:Risa Amamori/イシヅヤシン/猫なのにTue.

【セットリスト】

(即興ピアノインストを少し弾いてから)
1.夏の夜の幻想曲(ファンタジア)
2.音楽家の恋 
3.それが幸せ
4.海を泳ぐ
(アンコール前に「貴婦人の乗馬(ピアノ)」)
ENCOLE.観覧車の天辺で

***

お昼間のセブンスが満員御礼!!でした。


 今日はお得なランチプレート付のライブで、
メニューは「ひよこ豆のトマトチキン煮込み」でした◎
お腹も大満足!セブンスのごはんは本当に美味しいです^^


今回サブタイトルに「pianistic!(ピアニスティック)」とあるように、私が本当に好きなピアニストの方たちをお呼びしたブッキング。
最初から最後まで、本当に贅沢なピアノの時間でした◎


お客様に私の出番の際MCで、ステージから
「楽しんでいただけましたでしょうか?」と言ったら、会場全体からの暖かい惜しみない拍手が…!!
今回出演者の流れも完璧で皆さんが本当に素晴らしくステージを作ってくれていたので、そんな日は自然と自分も良いステージになってしまうんです🎹


セブンスフロアのピアノと、私も気持ち高ぶる演奏に。



ステージを降りる間もなく、アンコールも。
ありがとうございます。


会場全体から、お客様から、出演者の皆さんから、会場のセブンスフロアのスタッフの方から、良いライブだったんだな、と伝わってきました*


MCでもお話ししましたが、私はピアノを弾くのが本当に好きで、楽しくて、小さい頃から母のエレクトーンの鍵盤を触って遊んでいました。
本当に小さい頃から自分の曲を勝手に作って弾いて、それが私の一番の“楽しく遊ぶこと”で。

音楽活動10年目を迎えて、もうピアノを20年以上触っていますが全然飽きなくて、「こんな音も出せるんだ!こんなに弾く人によって音色や個性や、出す音が違うんだ!」と聞いた人にわくわくどきどきする気持ちを、ピアノを好きになってもらえるようなイベントにしたくて「pianistic!」と名付けました。
ピアノの魅力が伝わったと感じられて、大成功本当にありがとうございます^^

ピアノ連弾デュオの猫なのにTue.さんの楽しくて、聞いていて思わず体が揺れてしまうような踊るピアノ、何回でも見たくなるライブ!本当に音楽の楽しさを思い出します^^

今回インスト曲も披露してくれたRisa Amamoriさんの撃ち抜かれるような声とピアノ、インストでは景色が浮かんでくるような情景描写で、さらにまた新しい魅力を見せてくれました。(今まで拝見したライブで一番素敵でした!!)

イシヅヤシン君は、セブンスのステージにとても似合っていて、声もピアノも会場を包み込むように広がっていてとても心地好かった。良いライブでしたね…!

そんな素晴らしいピアニストの皆さまの中で歌えて、最後にピアノを弾けて、本当に幸せでした…!!!!

音楽の神様に、確かに「愛された」と感じた瞬間でした。

10年続けてきて、出演者も、お客様も、会場のスタッフさんも、みんなが幸せを感じられたイベントが出来たこと、こんなに嬉しいことはありません…!!

本当に、本当にありがとうございました。

またこれからも、よろしくお願いいたします^^

次回ライブは2月6日@横浜O-SITEバレンタインイベント「フリージアとショコラ」に出演します◎
こちらもグランドピアノ弾き語りで演奏しますので、良かったらぜひ!
お待ちしております^^


野坂ひかり




今日はすごく哀しい夢を見た。
私の言っている事が嘘だと言われていて、私のやって来た事が嗤われるような恥ずかしい事だと大切な身内にも責められ、電車の中でそれを見知らぬ女の子に慰められたのか、「そんな事無いのに。絶対そんな事無いのに、証明出来ない」と悔しさや哀しさを噛み締めるような夢だった。
目が覚めても、身体中に夢の中からの哀しさが残っていて、哀しい気持ちの残像が消せなくて、暫く布団の中でじっとしていた。
何だろうこの哀しさは。こんな哀しい気持ちの夢って、こんな事って、今まであっただろうかと思う。
それでも哀しさは私ひとりの物で、決して誰とも共有出来ない物。
冴えない顔して、と鏡の中で自分と向き合った。

―――

弟が借りて来た「セッション」と言う映画を見た。
見終わった後唸る映画だった。
ひとりのドラマーの物語。物語のどんでん返しが何度も何度も有り、最後のドラムセッション、ドラムソロには思わず体が反応してリズムを刻み、観入ってしまう迫力。

そして映画を観ながら思ったのは、
「ああこう言う先生って居るよなぁ、居たよなぁ、え、あれ、思い出してなかったけど、私同じような授業受けたわ、中学生の時(!)」と言う事。

ここからはちょっとネタバレ含まれるので、苦手な方やこれから観ようと思っている方はお気をつけ下さいね。

音楽学校に通うドラマーを目指す学生の男の子が主人公の本作は、その学校のスパルタな先生のスタジオ・バンドに入り、その厳し過ぎるメンタルをやられる先生のスパルタっぷりを見せ付けられるのが本作のメインなのだけど、
私、これと似たような事、普通に中学の時に授業でやられた事ありましたわ、先生に。

記憶を紐解いていくと、そう、私は中学生の時一瞬だけ吹奏楽部に入っていた事があるのです、
「マウスピースが唇の形に合わない」と言う理由で、炎天下の中ひとりクーラーも無い別室で、ひたすらマウスピースだけをずっと吹いていても「ポーッ、ポーッ」と言う情けない汽笛のような音しか出ないのをずっと一週間位やらされていたっけ…。入り立ての新人の頃。

何も楽器が弾けないので(ピアノの伴奏は別でやっていた)、打楽器の何かで全体合奏に参加した事も何度か有りましたが、そこの顧問の先生がねぇ、まあスパルタで、普通にチョークとか飛んできましたしね、映画みたいに。
椅子を蹴りあげたり、人に向かってチョーク投げ付けたり、「何やってんだよ!!!!お前らぁ!!真剣にやれよぉぉぉ!!!!」とひたすら罵声飛ばされたり、
まああの映画の中の合奏風景の、ピリピリ一言も口聞いてはいけない、口聞けない空気のそのまんまでしたねぇ、そう言えば、懐かしい。映画を観るまで、そんな事忘れてました。思い出さないくらいどうでも良い、忘れたい事だったのかねぇ。
そこの部の先輩?だかに私の鞄を隠されたのか(恐らく)、返って来ず見付からなかった事もあったような事も思い出しました、そう言えば…その鞄らしき物どこ行ったんだろう…驚く位どうでも良いです、何の思い入れも感慨もない、あったかどうかも忘れていたどうでも良い出来事。
余りに無関心過ぎて忘れてました。

―――

中学校の音楽の先生は二人居て、もう一人居たおばさまの女の先生は、男子だけあからさまに贔屓していて、私はテストが100点でも、うちのクラスで私が伴奏をした曲が合唱コンクールで金賞を取っても、成績で「5」が貰えず、指揮の男子だけ(先生のお気に入りの子)「5」を貰っており、とても悔しかったのを覚えています…。
世の中の理不尽とか贔屓とか、露骨に有るんだなぁと肌で感じた一番最初の出来事です。今でも思い出すと腹が立つくらい。

伴奏は、ピアノを弾けるようになるまで練習に物凄い時間がかかります、私は暗譜しないと弾けないので、何度も何度も、他の生徒の子の何倍も時間をかけて、ピアノの伴奏をしていました。他の子のように遊ぶ時間も、ピアノを弾いていました。別にピアノを弾くことを選んで望んでいたし、楽しかったから良いんだけど。

クラスの朝練のために色々やった覚えもあるし、私の演奏した曲は今から思うととても難しく、あの曲を暗譜してあれだけ弾いていたと言う事は、もしかしたら今の私よりも、その頃の私の方が、ピアノが上手かったのではないかとすら思う。

その事がまっっったく評価されなかった。本当に、思い出しても腹が立ちます、お気に入りの異性の男子生徒だけ贔屓される理不尽に。思い切り、ムカつく。

その女性の先生は(本当に化粧っ気がなく、感情の起伏が激しい、感性豊かなおばさまだった)、
授業中に私のピアノにだけスパルタを掛け、私のすぐ横に来てピアノに張り付き、「この何小節目から、もう一回!」や「もっと感情を込めて、もっと、もっと、もう一回ここから!!」と何度も何度も、音楽の授業中に私だけ、延々とピアノを弾かされ続けた覚えがあります。
(クラスの他の生徒の皆さんはその間待機している、何もせずしーん、と声も発せずひたすら見守っている…。)

その授業が終わってから友達に「さっきのひかりちゃん凄かったね、あんな風に言われて、演奏がどんどん良くなっていくのが、二人がヒートアップしていくのが見ていてこっちにも分かって、私まで緊張しちゃった…私だったら、あれは出来ないし嫌だな、無理だわ…」と声を掛けられて、
私は「えっ、そう?そんなだったの、私全然平気よ~」とあっけらかんとしていた事を覚えています。
そう言えばそんな事もあった。(そこまでやるなら「5」をくれよ…!!ほんとに😡やってんだから!)

その先生は高校に進学してからも、合唱部の伴奏をやっていた私の名前をなぜか見つけたらしく、コンクールまでわざわざ観にいらっしゃってました。

私が伴奏を担当したその年が運悪く「10年に一度位にだけ巡っている、めちゃくちゃ伴奏が難しい課題曲の年」だったため、
軽音部に入りたくてその高校を選んで進学して、ピアノ伴奏に対してモチベーションが下がりまくった状態の私では、
その難し過ぎる譜面のピアノを当然上手く弾けずに(練習もする気すら起きなかった、寧ろ歌いたかったから軽音部に入って兼部していた)、
当日ボロボロで(確か)、
その観に来てくれていた中学の時の女性の先生から終わった後に
「悔しいでしょ?悔しいわね、じゃあもう一度やるって、来年頑張るって今ここで誓いなさい、良いわね!!よしっ!!頑張るのよ来年!!!」
と勝手に来年もやるみたいに決め付けられたので、
((ん…?よく分からない、なんか勝手に話進んでるけど(先生が進めてるけど?)、
何で私が来年もやらなきゃいけない事になってるんだろう…
私は歌を歌いたくて軽音部に入ってるし、もうこの人には会わないだろうし、まあやらなくていっか!p(∂o<)q☆ミ))
みたいな気持ちで、
その先生のよく分からない熱血に私は付き合いきれず、合唱部のピアノ伴奏は、もう二度とやりませんでした。(そこまで言うなら中学のピアノ伴奏の時にちゃんと成績5をくれ…!)

(その合唱部も雰囲気が合わない感じだったので、兼部は辞めて軽音部一本になりました)

―――

はい、いかがだったでしょうか?
私の理不尽なスパルタin中学生の時体験でした!

ほんとにさ、評価してくれてるんなら成績5をくれよ…男子とか異性差別しないでさ…マジで…

―――

あの「セッション」の映画のように、音楽人はよく分からなく狂っているので(独特の美学や信念を持っている)、音楽で殴り返さなきゃ駄目だな、と思いました。強く。

いや~物事って体験した事とリンクしますね、マジで。
久しぶりに中学生の時の事を、映画「セッション」を見て思い出しました。

最近記憶を追体験してる気がする。。

 


2018/01/11 明け方  野坂ひかり




映画の中の世界から抜け出ると、世界が違って見える事がある。


昨日は地上波テレビ初放送となった「君の名は。」を家族で見て、一人暮らしで帰って来ていた妹を駅まで見送りに行く時に、見上げた星空も、見慣れた風景も、駅のホームも、とても優しく美しく、いとおしく、綺麗な思い出に見えた。

物語の中の世界に入って、私達の体の中まで物語が届いて細胞まで染み入り、現実の元の世界に戻って来てもまだ、物語が私達の中に息づいている時、世界は違って見える。

見慣れた風景が、見上げた星空が、いつもよりいつも以上に輝いて美しく見える。何でもない毎日の繋がりが愛おしく思える。

――

時たま、私は私の中に在る物語に支配される。
物語はまるで手に負えない獰猛なモンスターのようで、あっという間に私の中身はそれに占拠される。
あれ、どうしよう、あれ普通に出来ない、ふつうって何だっけ、何かすごく、大切な人を、誰かを何かを忘れてしまっているような気がする。そうして心細くなって、あちこち中を探す、見慣れた景色に居るのに、普段の毎日なのに、そこはまるで異世界で、私の知らない日常みたいだ。
そこで私ははた、と気付く。
あれ、私はいつの間に迷子になったのだろう、と。
心細くて、寂しくて、誰かに何かに心は一直線で、“それ”を見つけようとする。
只一つの“それ”を見つけられたら、もう大丈夫なのだ。
寂しくても何とか押さえきれる、こんな風に上手く出来なくて取り乱したりしない、何かを、“それ”さえ見つければ、それを持っているのは、どうしても大切な誰かは何かは、何だっけ。思い出せない。
思い出さなきゃ、忘れたらだめだ、ここは何処だっけ、これは何だっけ、私は、あなたは、誰を忘れたくなくて、誰と出逢って、此処まで歩いて来たんだっけ、思い出さなきゃ、私の心を守ってくれる、壊れないようにしてくれたのは、一体、

そんな風に思い出す時、私は「君の名は。」の場面を思い返す、
ああ、こんな風に必死な気持ちだったのかと、あの二人、あの子たちも、きっと。

私の少し他人に言えない性質で、物語の中の登場人物の人間を、自分の中で実際の現実の人間よりも近く感じてしまう、と言うのが在る。

そう言う時、私の頭の中には絶えず映像が流れる、どっぼーんっと深い水の中に落ちて行くような感覚、まるで時間の波のような、水に落ちてしまう事は多くの物語の中で、異世界や別の次元に通じる一種のトリガーとして用いられる。

私の中の一種のトリガーは音楽だ、在る音楽の中に私はどっぼーんっと落ちる、落ちて落ちてすごく深い所まで行く、沈んでいって、見なければいけない景色があって、それにはいつも痛みを伴う。
何でこんなにずっと、痛いままなんだろうと思う、こんなに頑張って向かい合って来たのだから、少しは報われても良いものの。
これが私の体験してる実際の現実でなくて、創られた物語であったなら、ちょっとはそこの痛みをはしょって語られたりしたのだろうか。  

――

―ああ、ねえ、全然、大丈夫じゃないよ。
私はもうこんなのいやだ、迷子のままで、ずっとひとりで、どこかに行かなきゃいけないなんて、本当に嫌だ。いやなんだ。
そんな悲しい気持ちになりたくなくて、ずっと、一生懸命がんばって来たはずなのに。
もうどうしよう、ひたすら冷たくって、体が動かないや。
私ひとりで、もう疲れちゃったのかもしれない。

迷子じゃなくなりたくて、やっと見つけた暖かかった手を離したくなくて、色んな場所を歩いて、色んな景色を見て、一緒に歩いてきたはずなのに。

何処にも行かないで、って言えばよかった。
もうひとりはいやだって、泣ければ良かった。
一緒に泣けばよかったんだ、二人で、あんなに一緒に居たのに。私だけが、あなたの世界に入ってしまったのに。私だけが。わたしだけ。

魔法のような起こり得ない奇跡を、こわしてしまったのは一体誰だったんだろう、何だっただろう。

もう戻れない、もう取り返しが付かないからきっと、こうして私は最後に届いた紙飛行機を広げて、そこに書かれた言葉に呆然としている。

―これがあなたの答えなの?

そう聞きたくても、もうきっと声は届かない、届かないから、この場所で動けないまま呆然とするしかないのだ。
あれどうやって息してたっけ、歩いてきたっけ、歩いてたんだっけ、うずくまって時々訪れる夕焼けをひとりで眺めている。独りで。

終わらせたくなかった。
終わりにしたくなくて、こんなにがんばったのに。

――

観客が見たい、物語の結末は絶対にハッピーエンドだ、
誰もがみんな、バッドエンディングを望んで、お金を払って映画館の椅子になんて座らないだろう。


新海誠監督の「秒速5センチメートル」と言う作品が好きだ、「君の名は。」のずっと前の、10年以上前の作品を、私は友達から教えてもらって新海誠を知った。
この物語の結末はバッドエンドだ、それも、格別な。初めて見終わった時は悲し過ぎて、寂しくて穴が開いたようだった。
新海誠監督の言葉でも「終わってショックで椅子から立ち上がれなかった」と言う観客の感想が多かった、と言っていたから、皆私と同じ気持ちだったのだろう。

物語を見ていると言う事は、実際に近くでそれを体験してしまうと言う事だ、私たちは主人公の一番近くで、それを見、感じ、時には観客として、時には主人公として、客観的に、主観的に、物語に関わり作用してしまう。
自分の中身がそこで創られ、そこで作り替えられ、新しい何かに、まるで蛹が蝶に羽化する過程のようにどろどろに溶かされ、再構築される。
私たちは登場人物に自分を当てはめ、投影してしまい、その姿に自分を重ねて、物語の中で成長してしまう。
本当にすごい作品と言うのは、見終わった後と前とじゃ世界が違う、もうその作品を見る前には決して戻れないのだ。それくらい、物語を語る作品には、魂や時間、人生や経験が込められている。その中で生きてしまう。

――

初めて「君の名は。」を見たのは、映画が大ヒットした一昨年(もう二年前か…)2016年の夏の終わり、音響がやたら良いと全国でも有名な、地元の映画館だった。
「極音上映」と題された名前に相応しく、とてもダイレクトに映像と音が届き、物語は進んでいく。
「秒速」の新海誠監督だから見に行かなきゃ、と言うふつうの気持ちだった。


しかし物語を見進めていくに連れて、私はふつうの心持ちで見れなくなっていってしまった、
心の中に『 お ん な じ だ 』と言う信じられない声が響く。
―私、これ、知ってる…。
目を見開いて、動けなくなってしまった。

――

物語はコミカルな部分も含めた、男女入れ替わりと言う見ている人が楽しめる設定を生かした作りになっていて、絵も親しみ易く、背景は相変わらず素晴らしく美しく、音楽も声もストーリーも良い。
でも違う、
―これは、私の物語だ。
私は、そう思ってしまった。


その人の事を私は知ってる、とても親しくて、誰よりも近くて、でも何も知らない、でも本当によく知っている、他人に言われて見せられる証拠も無い、でも、確かに在った事。
失くしたくない事、忘れたくない人、忘れちゃダメな人、思い出したい、憶えていたい、ずっと、ずっと、あなたと一緒に居たい。

―あなたが、あなたの事が、会った事も無くても、証拠も何も無くても、私はずっと好きだった。

映画の中の三葉のその気持ちに、私は胸が壊れそうだった。

忘れない、忘れたくないとどんなに思っていても、記憶は消えてしまう、消えて無くなって思い出せなくなる、夢は終わる、いつかは夢から醒めてしまう、でも、それでも、
私も、あの物語のように、誰かの中で、一緒に夢を見ていた。ずっと、ずっと確かに一緒に居たのに。

貰ったものも、渡したものも、共有したものも、上手く思い出せなくなっていってしまう、このままだと、風化すると。

――

夢のような魔法は終わったんだよ、と繰り返し繰り返し何度も、よく知っているのと同じ声が歌う、夢はいつか醒めるように、魔法は消えてしまうんだと、当たり前の事がまだ、私は信じられない。

――

真っ白い何もない世界の中で、精神と時の部屋の様な場所で、私はひとりで途方に暮れているしかない、
消え失せたのなら、しょうがないのかもしれない。
でも、何とかならないのか、未だ私に出来る事はないのか、必死に探している頭が、冷たさで手足がしびれてだんだん上手く働かなくなっていく。

―こんなにがらんどうで、寒かったっけ。
今まであなたが居たから、誰かと一緒だと気付かないもんだな。

見上げると星空が見えるけど、綺麗すぎてとても見ていられない。
足を抱えて体育座りでうずくまっていた方がいい、このまま一体、どうやって生きよう。

だんだん、上手く泣けなくもなってきて、眠る意味も為さない。
仕方無いか、終わってしまったんだもの、ねえ、面倒臭くても、向き合って欲しかった。向き合いたかった。時間を懸けて、時間を費やして、何度でも。

うずくまっている私は、まるで夢の中から独りでずっと目覚めない、新海監督の「雲のむこう、約束の場所」のサユリみたいだ、とぼんやりほくそ笑んだ。
―私はああ言う女の子ヒロインが苦手だと言っておいて、結局自分に似てるから、同族嫌悪のようなものじゃんか。

このままずっと眠っていられたらと思う、夢の中でまた何か言ってくれないかな、
「あと二、三年は音楽やるんでしょ」とか「やんなっちゃったんならしょうがないと思った」とか、「本当に嫌なら手なんか繋がないよ」って、もう一度言ってくれないかな。
もう夢さえも、あの人と繋がってもいないのか。

『三葉、お前、夢を見てるね』と「君の名は。」に出てくる三葉のおばあちゃんは言う、私も、夢を見ていて、夢から離れられない、離れたくない、無くしたくないのに、夢は終わりだと、迷子のままで何処へでも行くんだと言う、もう、そんなのあんまりじゃないか。

観客は誰もバッドエンドなんか本当は見たくないんだ、心のどっかで、本当は期待してるんだ、この物語の、幸せな続きを見たいんだよ。

――

とてもじゃないけど自分と重なり過ぎて正気で見ていられなかった「君の名は。」で監督は、『行動することで、未来は変えられる』とメッセージを込めたんじゃないかと私は思った。

その為に、彼は、彼女は、三葉と瀧くんは、走る、走る、走った、何度転んでも、ふたりで。

私は伝えようとして、上手く伝えきれてなかったのか、物理的な距離が遠過ぎて誤解を招いたのか定かでは無い、
そう、ちゃんと会えていたら、あの映画の中で誰そ彼れ時のシーンのように、物理的に近い距離で伝え合っていたら、伝え合えてたらきっと、こんなに寂しい気持ちにはならなかったかもしれないのに。

現実は物語のように上手くいかない。

でも、物語の中に現実も宿っているはずだ、「事実は小説より奇なり」の様相で。

――


知る人ぞ知る存在だったかもしれない(知っている人は勿論知っていた)新海誠監督の「君の名は。」があれだけヒットしたのは、物語の終わりが、誰もがほっとするハッピーエンドだった事もすごく大きかっただろうと思う。

映画館の中でもう途中からずっと号泣していた私は、ラストの瞬間に嬉しくて安堵して、さらに涙が込み上げて、泣いた。
「秒速5センチメートル」で悲し過ぎてショックの一筋の頬を伝う涙ではなく、本当によかった、嬉しい、と込み上げて止まらない大粒の、胸を満たす暖かい、涙だった。

結局私も、苦手だと言った「雲のむこう、約束の場所」のサユリのように、夢の中でひとりずっと待っているのだ、
サユリがあの寂しい夢で飛行機が飛ぶのを、ずっとずっと待っていたように、
私も、まだかろうじて残っている夢の残像のような世界でひとり、もう一度紙飛行機が届くのを待っている。

私が紙飛行機の返事のために飛ばした、沢山の沢山の蝶々たちは、無事に辿り着いただろうか。
私の手紙で伝えきれなかった、言葉にならなかった行間の言葉まで、私は怖がりながら上手く伝えられたのだろうか。

――

彗星が地球に近付く周期のように、二人の軌道が重なる瞬間が、映画の中だけじゃなくて確かに在って、歌を聞いたその日は、夜中の3時まで帰ってからずっと、ずっと泣いていた。涙が止まらなかった。
伝えたい誰かが居て、それを伝える事が、こんなに怖い事だとは思わなかった。それが届いているのかも解らない、不安も。

昨日の地上波初放送で「君の名は。」をもう一度見て、作品から何かのシンパシーを確かに受け取ってしまったように感じて、今日もまた新しい歌を書くのだろうと思って、言葉を書き留めた。
向き合うのはとても、痛みが要る事だ。
本当に誰かと、向き合う事も確かめ合う事も繋がる事も関わる事も。

――


地上波放送の前に、新海誠展を見れた事も大きいと思う。
お正月特集で深夜放送の「言の葉の庭」「雲のむこう、約束の場所」も見たのだけれど、
作品の中で「あそこはあの絵コンテだ」とか「あの風景の元の写真はこんな感じだった」とか色々浮かんで、沢山解った事で作品の理解度が深まった気持ちだった。


新海誠展で一番好きだった展示は、「言の葉の庭」の中の雨の風景の描写を集めて、ひたすら映像が流れている場所だった。
途切れず沢山の画面に入れ替わり立ち替わり沢山の雨粒が、雨が降り続いていく、それが異様に心地好かった。ずっと見ていられた。
しとしとと落ちる雨の描写は“慈雨”のようで、心の隙間を濡らして琴線に触れてしまったと思う、色んな人の、心の中の。

雨があまり好きでなかった(高校の時は雨が降ると学校に行かなかった事もあった気がする、外に出ても引き返したりとか…)私でも、あの場所で、あの雨の映像を見た事で、雨が好きになってしまったと思う。それくらい、物語の魔法は作用するのだ。

そして共振と言うか、共鳴する作品とは何度もシンパシーを感じてしまうもので、
「言の葉の庭」もすごく自分の中で大切な作品になった。
とにかく、物語終盤のマンションのシーン(一番盛り上がるところ)で、入野自由ボイスの主人公が、雪野さんに私が言いたかった台詞を全部ぜんぶ言ってくれた…。
自分の気持ちと全く同じ過ぎて、ぐわっと涙が込み上げて、号泣していた。
ずるくて嫌いになりたい、届かなくても、救われていたんだって…。
良い映画だったなぁと思った。本当に。







その時に買った図録の中で、美術チームの方のインタビューが載っていて、「絵の中でウソをつく事も、美しさに貢献するならばいいと思って描いている」と言うのを読んで、私の視界に掛かっていたもやが一気に晴れた。


私の尊敬していた憧れだったアーティストも、「その曲を最大限に生かす為に、自分達の曲が最高に格好良く作用する為に、それが一番最良の策だと決心して“嘘を吐いた”んだ」と解ったから、とてもほっとした。

ずっと自分の中で、嘘を吐く事、それを信じていた事にショックや違和感が拭えずに苦しむ部分があったけれど、とても納得のいくクリエイターの志のような気持ちを感じられたから、「私がその人たちの音楽を選んで、信じて聞き続けて来た事は間違ってなかった」と思った。

信念がちゃんと宿っていて、だからその音楽を好きになれたんだ、今も救われていて好きなんだ、と肯定出来るのは、ただ大人の事情で誰かの言う通りにしているだけの、意思の決定権を何も持っていない場合と全く意味が違う。

こうしてクリエイターの本当に触れていると、自ずと本物の真実がちゃんと見えてくる。
無理矢理言葉にしなくたって。

――


今聞いているこの曲と向き合えるまでに、恐らく一年くらい掛かった。
私はどうしたいのか、私は伝え続けるのか、怒るのか受け止めるのか、未だ少し時間は在るから。私に見える彗星の軌道が重なる日までに、ちゃんと向き合って決めるのだろうと思う。

でも、何度でも喧嘩して、何度でも仲直り出来るよ。
そんなつもりで言ったんじゃなかったのにって、急につまづいて転んでも、同じ場所で一緒に転んで同じ所が痛くって、傷をお揃いにして笑い合えたり、手を差し伸べあって立ち上がる事だって、きっと出来るよ。

――

私の中の物語が言葉になってく、それが誰かに届いてまた、イマジネーションのリレーになるかもしれない。

私の物語は世界の秘密とちょっとだけリンクしていて、それがこんな風に他の作品の物語と共鳴して現れたりする。
これだから、人生は面白いと思う。
不思議で、与えられたものに、運命のようなデイダラボッチのどろどろに、逃げたって逃げられないまま。

私の物語は、フィクションでありノンフィクションでもあると思う、
一度私の中を通り抜けてしまう時、私たちは図らずも必ずその“目撃者”になってしまうから、フィクションでもあり、ノンフィクションだと。

とても美しい世界に呼応して、まだ世界に対する美しさや希望を諦めきれずに、私たちは、僕らは生きていく。

自分を肯定してくれる世界がまだ存在すると言う事は、宮崎駿の言う「この世界は生きるに値するものだ」に繋がると思う。

―私は私の流れ星を、紙飛行機を、ずっと待っている。

新海誠監督の作品に、出会えてよかった。
本当に良かった。

これは私の物語のおはなし。











2018.01.05 深夜
野坂ひかり



昨日公開した #metoo ムーブメントを受けて書いた記事
「今まで体験したセクハラやパワハラ、#metoo ムーブメントを受けての言葉を綴ります」
が、かなりの反響をいただいてびっくりしています。

沢山の方に届いて読んでもらえたようで、本当に嬉しいです。ありがとうございます。

私の元には同じ女性アーティストの方からもコメントが届き、そしてライブハウスに来てくださっているお客様からも本当に沢山の、共感の声をいただきました。

皆さまからいただいた反響で、一番多かったのが「書いてくれてありがとう」「勇気ある行動を尊敬します」と言うもの。私に対する批判はありませんでした。。


私がこの記事を書いたのは、“過去の自分と向き合うため”だったからだと思います。
そして何より、どんな気持ちで歌ってきたのか、なぜ「傷」のような曲を歌うことが必要だったのか、私の音楽を聞いてくれているファンの方に知ってもらいたかったからです。

自分自身も、音楽活動を始めた最初に比べて、感覚が鈍くなっていたと感じました。
記事に書いた出来事が、まるで鈍い痛みのようでした。
「嫌だったけど、これがその世界のよくあることならしょうがない」と済ませようとしていたのを、記事を読んだ皆さんが「許せない」と本気で怒ってくださって、「やっぱりそうだったんだ」とはっとしました。


お世話になっていた美容師の方から、「お客さんは教育するものだ」と言われたこともあります。

やはり何が嫌なのか、どうしてダメなのか、と言う事が分からない方もいます。それに対しては、私達アーティスト・演者側も「どうしてダメなのか」「何が嫌なのか」と言う意思表示を、はっきりしなければならない事もあると思います。

ファンとアーティストも、結局は「一対一の人間関係」の積み重ねで出来ています。

一概に迷惑なファンを邪険な扱いにすれば良い、と言う訳でもないと思います。

勿論、前の記事で書いたような、体を触ったり、終電を逃すまで帰らせない等のセクハラやパワハラは論外ですが。


今回私の書いた音楽活動で体験したセクハラ・パワハラの記事がこれ程拡散されたのは、皆が思い当たることがあったからだと思います。

現実問題、すぐに現状を変えることは難しいけれど、認識することで少しでも「良い音楽の場所」にライブハウスがなれたら、と思いますし、
セクハラやパワハラの事は活動初期に体験したことをタイミングが合いカミングアウトさせて頂いたものなので、
実際もう私は今、幸せなファンの方と幸せなライブを作り上げていると実感しています。

もし以前の私のように困っているアーティストさんが居たら、皆で全力で手助けしてあげられたらと思います。


#metoo ムーブメントの記事を読む中で、私が一番共感したのは、
「声を上げれば〈なぜか〉と問われ、声を上げなければ居ないことにされる」
と言う言葉です。本当にそうだと思う。



―※画像はbuzzfeed Japan 「#metoo」 関連記事より抜粋

#metoo と言う声を上げたのは、「誰かのため」なんて綺麗事ではなく、「自分のため」です。
人は自分のため以外には、本当の所で動けないと思うからです。
社会や誰かの未来を変えるため、なんて大仰な事ではなく、「私はここにいて、こうだったんだ」と自分と向き合うきっかけをくれた #metoo ムーブメントに、感謝します。


私は今、頑張って音楽活動を続けてきた結果、ファンの方にも恵まれ、前回の記事で書いた「傷」と言う曲は殆ど歌わなくなりました。

そして「それが幸せ」と言う曲を歌い、「良い曲だ」とファンの方から言われ、同姓のアーティストやお客さんにも「この曲を聞いて涙が出た」と言ってもらえるようになりました。

今、以前の私のように、ライブのお客さんとの関係で悩んでいるアーティストの女の子が居たら、大丈夫、私のように乗り越えて歌い続けて行けるのだから、と少しでも背中を押せたら、伝えられたら嬉しいです。

今回こうしてブログを綴り、今までの自分の音楽活動を見返す機会になり、沢山の方に出会い、読んでいただけたこと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

これからも自分にしか歌えない歌を、自分にしか伝えられないことを、活動を通して発信していけたらと思います。

読んでくださって本当にありがとうございます。


野坂ひかり