尾張の国は、真ん中を川で隔てられ、北は織田信安の、南はその弟の織田達勝の支配下にあった。達勝は、守護職の斯波義統を清州城に置き、三人の奉行を仕えさせていた。
その一人が織田信秀であり、尾張の国境にある勝幡城を任されていた。
信秀は、名古屋を丈夫な要害とするよう、嫡男の織田信長に城を守らせ、自身は熱田の近くの古渡というところに新城を造った。信長は、毎日天王坊というお寺に通い勉学に励んだ。

 

1542年、今川義元率いる駿河衆の軍勢が三河の正田原へ進出し、軍兵を七段に配して戦陣を整えた。三河の安城は信秀が守っていたが、小豆坂での合戦で敗れ、安城には駿河衆が入ることとなった。


1546年、信長は、古渡の城にて元服した。翌年初陣した信長は、紅筋の頭巾、馬乗り羽織、馬鎧という出で立ちで、手勢をつかわし三河の吉良大浜をあちこち放火し、名古屋に帰陣した。


1547年、信秀は、尾張国中の将兵を集め、美濃の国へ乱入し、斎藤道三が守る稲葉山城の町の入り口まで攻め込んだが、城の守りは案外固く、夕方に仕方なく兵を引き上げようとするや、道三勢が城の外へどっと切りかかり、信秀の弟信康を始め、織田勢50人あまりが討ち死にした。その時の一人である千秋紀伊守が持っていた名刀あざ丸を、美濃衆の蔭山掃部助が奪ったが、蔭山はその後、敵方から射ち込まれた矢が左の目をつぶし、引き抜くと今度は、右の目を射ち抜かれた。不思議なことに、その後丹羽長秀の元にわたるが、長秀も直後眼病を患った。熱田大明神に奉納したところ、立ちどころに目もよくなった。その名刀あざ丸は、昔平家の盲目の大将景清が差していたものとのことであった。

 

道三は、この9月20日の合戦に勢いづき、11月、織田播磨守が守っていた美濃の大垣城に攻め寄せた。古渡の信秀にもその旨の注進があり、それならと諸将から兵を集め、木曽川、飛騨川の大河を船で越え、美濃に乱入しあちこちに火をつけた。道三は慌てて大垣城から兵を引き、稲葉山城へ引っ込んだ。

信秀の留守中、古渡では清洲衆が反乱の兵を挙げ、城の付近を放火する矢先に、信秀が帰陣した。信秀家老の平手政秀は、清洲衆となんとか和解するよう、書状を幾度となく書きしたため、翌年秋、ようやく和平の合意に至った。正秀が和睦の書状に付した古歌が一首。「袖ひぢて結びし水のこほれるを春立つけふの風や解くらむ」

 

その平手正秀は、尾張の安泰を願い、信長と道三の娘濃姫との縁談を発案した。めでたく縁談は取り結ばれ、濃姫は尾張に呼び迎えられた。信長は18の頃まで馬の稽古や川の水泳はもちろんのこと、弓、鉄砲や兵法の師匠を常に側近く置いて、幅広く稽古に励み、一日一日を武士として有為に過ごした。身なりは湯帷子の袖をはずし、半袴で、火打ち袋をぶら下げ、髪をちゃせんまげに結い上げ、もとどりを紅や萌黄糸で結い、朱ざやの太刀を差し、お供にも朱色の武具をつけさせる有様で、町中人目をはばかることなく、瓜など食べ歩き、時には餅を頬張り、人の肩にぶらさがるような恰好で、周りは「大うつけ」と呼ぶ者ばかりであった。

 

1549年3月、信秀は疫病にかかり、祈祷や療治の甲斐なく、御年42年で逝去した。国中の僧衆のほか関東に行き来する会下僧も含め、300人に及んだ。信長には、平手正秀はじめ家老衆が付き従う。弟の信行には、柴田勝家、佐久間信盛ら家臣が供をする。まずは信長が焼香に立つ。ちゃせんまげに袴も通さず、仏前へ出、抹香をかっとつかんで投げつけてそのまま背を向け後にした。対し弟信行は、袴を召し礼にかなった作法により無事に済ました。周りの者は、例のごとく信長を「大馬鹿者よ」と囁く中、一人筑紫から来た客僧は、「あの人こそ国持ちの大名ともなるべき人よ」と評した。信長の幼少から仕えた平手正秀は、信長のまじめでない様子が一向に変わらないのを悔やみ、「今まで盛り立てて来た甲斐なく、存命していても仕方がない」と、腹を切って、息果てた。