信秀葬儀から一月、1549年4月のこと、斎藤道三から、「富田の正徳寺まで出向くので、信長殿もお出でいただきたい」との申し入れがあった。「信長は大あほう者だ」と道三に告げ口する者多かったが、道三は、「周りからそう言われるときには決してそのようではないだろう」と考え、その真偽を確かめようとしていた。
信長はためらいなく申し入れを受け、お供衆800人に朱槍500本、鉄砲500丁を持たせ、木曽川、飛騨川の大河を渡った。道三は、町外れの小家に忍んで、信長の様子をそっとのぞき見た。その時の信長の身なりは、いつものように、ちゃせんまげに豹柄の半袴、火打石などぶらさげていた。道三は正徳時に戻り、信長を待ち受けた。信長が正徳寺に着いた頃の様子は、うって変わって髪をきちんと折り曲げ、人知れずこしらえた褐色の長袴を履き、小刀を差していた。
信長が御堂へ上がったところ、堀田道空が「はやくお出でください」と迎えたが、信長は知らぬ顔、諸将の前を素通りし縁の柱にもたれて待った。
道三は屏風を押し退け姿を見せたが、信長はなお知らぬ顔を通すので、見かねた堀田道空は「これが山城殿でござる」と近づくと、信長は「そうか」と受け、敷居から中に入り、堂々座敷に座し、道三に一礼した。
道空が両名に湯漬けを差し上げ、両名互いに杯を交わし、対面の儀は滞りなく済んだ。信長は「またいずれお会いしましょう」と座を立ち、道三は2㎞ほどを見送った。その時、美濃衆の槍よりも、尾張衆の槍々が長く、道三は苦虫を噛み潰した様子で、言葉もなく御堂へ戻った。
帰りの道中、道三の家来兵助が「信長はやはりうつけ者ですな」と向けると、道三は、「誠に無念だ。我が子はあのうつけの門外に馬をつないで仕え働くことだろう」と答えた。それ以後、道三の前で信長をうつけと呼ばわる者はなかった。

 

1553年4月、信長御年19の時、父信秀は急逝した。信秀が目をかけていた鳴海の城主、山口教継とその息子教吉は、信秀が亡くなるや謀反を企て、今川の駿河衆を味方につけ、尾張領内に乱入した。鳴海城は教吉にまかせ、教継は中村の里に要害を拵え立てこもった。信長は直ちに軍兵800ばかりで出発、鳴海城の北西2kmに迫った小鳴海の三の山へ駆け上った。教継は直ちに打って出て、三の山東1kmの赤塚へ、1500の軍兵を向けた。この様子を三の山から見た信長は、赤塚へ軍兵を向け、先陣の足軽衆同士が矢を放ち、入り乱れ、火花を散らして戦った。敵味方互いに見知った間柄で、少しも油断がならなかった。数時間後、山口教吉の軍兵が優勢で終わったが、その後、馬や捕虜を互いに返し合った。

 

同じ年8月、今度は清洲衆家老の坂井大膳、坂井甚六らが謀議し、松葉城の織田伊賀守と深田城の織田信次を人質に取り、両城を手に入れた。信長はすぐに名古屋を発ち、信秀の弟の信光とともに、ふもとの川口に軍勢を寄せ、相戦った。信次のお抱えの者で、腕に覚えのあった赤瀬清六という男が先を争い坂井甚六と渡り合ったが、しばらくして清六が討ち死にした。しかしながら、疲れ果てた坂井甚六も、その後柴田勝家に首を取られた。数時間に渡る矢戦の後、正午頃、清洲衆に負傷者多数、清洲城へ引き上げ始めた。そこへ信長、すかさず二城を囲み、敵は降参、城を明け渡した。信長は清洲城の周りの田畑を全て刈り取り、清洲城を丸裸にした。

さてその清洲城には、16の若年ながら、兵卒300人を従える名古屋弥五郎がいた。弥五郎は、斯波義統の臣下の梁田弥次右衛門を呼び、「清洲に不和を起こさせ、信長様にお味方し、知行をおとりなさい」と唆した。弥次右衛門は信長のもとへ訪れ、忠節を尽くしますと密かに明かしたところ、信長は一方ならぬ満足ぶりであった。信長は清洲城に軍兵を引き入れ、町を焼き払ったが、城中の守りの志気高く、弥次右衛門の動く隙を与えなかった。

 

1554年7月、清洲衆の坂井大膳らは、清洲城内の手薄な頃合いを見計らい、今度は斯波義統の御殿を取り囲んだ。四方の屋根から弓衆が散々射立てるので、かなわず御殿に火をかけ、斯波義統はじめ一門の方々、数十人が切腹を果たし、高貴な侍女は堀へ飛び込み、溺れ死ぬ者、絶え絶え渡った者、哀れな有様であった。信長は速やかに清洲城へ柴田勝家の軍勢を向けた。清洲勢も城下村で防戦するも、信長方の槍の方が長いため支えきれず、外れの堀に追い込まれ、優れた武士30騎あまりが討ち死した。清洲勢主格の織田三位も、斯波義統家来で若年17、湯帷姿の由宇喜一に首を捕られ、信長の賞賛ひとかたでなかった。斯波義統死後7日のことで、天道に違わず、織田家の父祖以来の主君を殺した織田三位の因果は明白であった。