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斯波の騒動に好機を見た今川駿河勢は、信長の小河城を狙いに定め、近くの村木というところに砦を築いた。信長はこれに対し自ら出陣する意気であったが、清洲から名古屋に軍兵を差し向けられるのは必須、道三方へ一部隊を派遣するよう依頼を出した。
1554年1月18日、道三は名古屋の留守役として大将安藤守就と1000の兵を向かわせた。信長は安藤への挨拶もそこそこに、小河城に急いだ。22日はことのほかの大風であり、船頭水夫は口々に「渡航はできまい」と進言するが、「源平争乱の昔、義経と景時が福島で逆櫓を付けるかで争った際もこのようであったろう。是非とも船を出せ」と信長は強引に船を出させ、20里ばかりを1時間で着岸した。駿河衆が立てこもる村木城は、東は大手、西は裏手、北は手薄だが要害、南は瓶形に固めた堀を備える堅固な守りである。信長自身は南の攻めを受け持った。信長は堀端に立ち、城の弓櫓の狭間を鉄砲で取りかえひきかえ撃つよう命じ、その他の全軍は堀を上るよう命じた。兵どもは信長自身のかけ声に奮い立ち、突き落とされては這い上がる有様で、負傷者、死者も山のように積み上がったが、いよいよ疲弊した城内は降参を申し出るに至った。
美濃に帰陣した安藤は、信長の難風中の渡海や南方からの城攻めの様子をいちいち細かく道三に伝えたところ、「隣には恐るべき男がいるものだ。」と感嘆したという。
 
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清洲城城主の坂井大膳は、織田三位や坂井甚介といった松葉城乗っ取りの同士が討ち死にした難局を乗り切るするためには、当面織田家の恨みを避けること肝要と考え、清洲城の従来からの守護代織田信友のほかに、新たに織田信光を守護代に迎え据えた。信光は、内心坂井許すまじとの思いであったため、表では快諾したふりをし、密かに信長と内通していた。1555年4月20日、信光のあてがわれた清洲城南櫓を坂井大膳が礼に参った際、信光は一気に決着しようと、軍兵を配置させたが、城中異様な気配を感じた大膳は風をくらって逃げ去り、駿河の今川義元を頼った。肩透かしを食らった信光は、代わりに大膳を保護した守護代信友を切腹に追い込んで清洲城を乗っ取り、そのまま信長に清洲城を献上した。
 
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さて、先の坂井大膳に対する仕置において、信長に従わず行軍から立ち退いた者がいた。一番家老の林新五郎とその弟林美作守であった。林兄弟は、大膳の騒動後、信秀葬儀の際に信長の弟信行側に着いた柴田勝家を担ぎ出し、三人で信行を盛り立てる計画を立てた。信長はその風聞を薄々感じていたものの、特段の動きを見せることはなかったが、信行が信長直轄領の三郷を横領したことを受け、佐久間盛重に三郷付近の砦を築くよう命じた。
1556年8月23日、砦がまだ完成しない中、大雨が降り、河の水が著しく増した頃を見計り、柴田勝家は手勢1000人を率い、林美作守700人とともに出兵した。信長は軍勢700人を守りやすいやぶぎわに陣取らせ迎え撃ったが、屈強の者ども続々と打たれ、皆信長の前へ逃れてくる。士気を高揚させたのは森可長ら槍持ちの中間衆で、槍を突き突き勢いを押し返した。信長も大音声で怒鳴り散らした。さすがの敵ももともと身内の者であり、信長の威光に恐れをなし足を留める者が徐々に増え始めた。信長と中間衆の勢いは林美作守の軍勢まで切り込んだ。美作の疲弊した姿を捉えた信長は、槍を突き伏せ、美作守の首をとった。勢いを失った柴田、林の軍勢は総崩れとなった。
信行は母の土田政久女を通じ信長に謝罪の意を再三申し上げたことにより、信長は信行ばかりでなく柴田勝家、林新五郎らも許された。林新五郎については再び召し出すことは困難と思われたが、林美作守が信長の丸腰を機貨として切腹を迫ろうとした際、林新五郎が「三代相恩の主君をこのような時に討つことは天道の怒りに触れ許されるものでない。せめて別の機会を待つべきだ」としたことを引き合いにしたものであった。
 
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弟の信行とは別に、兄の信広も、信長に対し反旗を翻そうと企んでいた。信広は美濃の斉藤氏と次のように示し合わせた。「信長は敵の攻撃にはいつも軽率に出向いていく。城に残った佐脇も迂闊者なので、信広の軍勢を城内で迎えた隙に佐脇を討ち、清洲城を乗っ取る。その後、斉藤勢と挟み撃ちにすれば信長に引導を渡せるだろう。」美濃衆はすぐに軍勢を清洲城に向けた。美濃衆の行軍がいつもより浮き足だっているとの進言を受けた信長は、家中に謀反があることを瞬時に悟り、「佐脇を城から出すな、信長が帰るまで一人も入れるな」と命じて、兵を向けた。信広はすぐさま全軍を清洲に向けたが、町に一歩も入れなかったため、謀反が知れたかと、早々に引き返した。美濃衆も引き上げる。信長も帰陣する。この時には大事に至ることはなかったが、信長の周りにはいつもこのように敵ばかりで、身内も背き、ただ一人であった。しかし、そのようだからこそ、連戦を勝ち抜く屈強の戦士800人が常に信長と共におり、信長が合戦において不覚をとることはなかった。