男女が「愛と呼べるのに近い線までいっている感情」をもつに至る条件ってなんだろう?デュラスがラマンの中で使った表現。臆病な。このかんじはよくわかる。お互いに?と思うのが大きな誤解なのかもしれないけれど。
そこで「ひそかに愛されているんじゃないか」と期待する根拠は、確信犯的な誤解に脚色された男のしぐさ、声色、目つき。そしてそのひそかな愛が、突然津波のように大きくなって、こちらに押し寄せてくるんじゃないか・・・と妄想するに至る時間。自分の中にそういう「うねり」を発見したとき、ブルリと身ぶるいしてしまう。
周りに誰もいなくなると、色合いを変える親密な空気。ふと手が触れてしまったときの温もり。歩いているとき、話している時、なんとなく磁石のように引き合ってしまう躰と躰。
これには何かある、妄想ではないかもしれない?
恋愛感情ほど、気持ちを揺さぶるものはない。それは楽しいともいえるし、生きている実感にもなるけれど、同じくらいのエネルギーで気持ちを傷つける。40代になって、またそんな感情の中に放り込まれて、しかも前の恋愛から立ちなおってもいないのに。これが大波になる前に、消してしまうか、飼いならす方法はないだろうか、そう画策する。恋愛感情のようなもののうちになら、分解することができるんじゃないかと思う。
本心を打ち明けないというルールは、40代も半ばで、取り柄のない女が、ひとの間で生きていくための不文律。
高幡が何を考えているのかはわからない。打ち消したい一方で、はっきりさせないなら、好きなように考えればいいとも思う。用心しながら、「高幡にをひそかに愛されている」と設定する。実はこの妄想は害がないようでいて、心の深部をむしばむものだ。いつもどこかで本当は根拠のない「ごっこ」だ、ということを忘れないようにしないと、自分の甘い嘘に自分がだまされてしまう。この遊戯の危険さ、いい加減経験から学ぶべきだ。
ごっこの絶対条件は、会い続けること。どんな理屈であれ、高幡と同じ空間に居続けること。顔をみて、声をきいて、物理的に出来うる限りそばにいる。その事実だけが、この仮想恋愛の燃料になる。会えなくなれば、それまで。会いたくないと、相手が思えば、そして条件が変われば、即終了。
もっと手腕があれば、次のステップにすすむか、見切りをつけるのだろうが。それはハードルが高すぎる。それは、もっと高度な人類が進む道。私は所詮下等な人類なのだ。


