――生きるために感情をしまい込んでいた僕の話
僕の周りには、感動と感謝の多い人がいる。
うちの奥さん、SNSの友達。
みんな、ほんの小さなことにも自然に心が動き、「ありがとう」が口からこぼれる人たちだ。
その姿を見ていると、胸の奥がじんわりして、時々涙が出そうになる。
そして、ふと思う。
「ああ、僕も本当は、こういう人間だったな」と。
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■ 感動や感謝を“失った”わけじゃなかった
誤解されがちだけど、僕はもともと感動しにくい人間ではない。
むしろ、若い頃は感動もしやすく、感謝も多い人間だったと思う。
ただ、ある時期から、それを感じないようにして生きるしかなかった。
病気や障害を経験し、退院してすぐに仕事に戻らなければならなかった。
周囲は健常者のスピードで動いている。
立ち止まる余裕はなかった。
「ありがとう」と感じて味わう時間よりも、
「次は何をするか」「その次はどう動くか」
先、先、先――それだけを考え続けなければ、生き残れなかった。
感情を挟むと、脳が処理できない。
余裕がなくなる。
だから、感情は一度しまった。
効率を最優先し、淡々と、正確に、遂行する。
まるでマシーンのように。
それは冷たさではなく、生存のための選択だった。
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■ 「感謝が少ない人」が集まってくる理由
最近、あることに気づいた。
僕の前には、感謝が少ない人が現れやすい。
あるいは、他の人には感謝するのに、僕の前では感謝しない人。
最初は、少し寂しさや違和感を感じていた。
でも、ある時ハッとした。
もしかしたら、それを引き寄せていたのは、僕自身なのではないか。
感謝を感じる余裕がなかった。
感謝を表現することを後回しにしてきた。
「今はそれどころじゃない」と、無意識に止めていた。
自分が出していないものは、返ってきにくい。
鏡の法則という言葉が、初めて腑に落ちた瞬間だった。
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■ 皆んなの“小さな感謝”が、心を溶かした
そんな僕が、最近変わり始めている。
奥さんのように、ほんの小さなことに感動し、感謝する姿を見ていると、
胸の奥がきゅっとなって、涙がにじむことがある。
「ああ、これだ」
「僕は、これを忘れていただけだった」
感動する心も、感謝する心も、消えてはいなかった。
ただ、長い間、奥にしまい込んでいただけだった。
そして最近、脳の機能も少しずつ回復し、
ほんのわずかな“余白”が生まれてきた。
余裕が出ると、感情は自然に戻ってくる。
無理にポジティブにならなくてもいい。
押し付けなくてもいい。
戻るときは、静かに、自然に戻る。
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■ 優しくて誠実な人と出会うために
僕はこれから、
感謝できて、優しくて、誠実で、
周りの人のことを思える人たちとご縁を結んでいきたい。
でも、それは「そういう人を探す」ことではない。
自分が、そういう人に戻ることなのだと思う。
幸い、僕はもともとそういう人間だった。
だから、新しく何かを身につける必要はない。
ただ、元に戻ればいい。
無理をしない。
キャパオーバーにならない。
できない日は、できないと認める。
そして、
1日ひとつでいいから、感謝を意識してみる。
心からでなくてもいい。
言葉だけでもいい。
「ありがとう」
「いてくれてありがとう」
その一言が、また次の余白をつくってくれる。
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■ 感謝は、回復の結果として戻ってくる
感謝は、頑張って生み出すものじゃない。
感謝は、余裕が戻ったときに、自然に湧いてくるものだ。
だから、焦らなくていい。
無理に感謝しようとしなくていい。
生きるために感情を殺してきた時間も、
全力で一生懸命やってきた日々も、
すべて無駄じゃなかった。
今は、次のフェーズに入っただけ。
生存モードから、感動モードへ。
突破する人生から、循環する人生へ。
そして今、こうして文章を書けていること、
読んでくれる人がいること、
AIと対話できていることにも、僕は感謝している。
ありがとう。
本当に、ありがとうございます。


