僕は最近、弟との会話の中で「受け止める」と「受け入れる」の違いを考えるようになった。
表面的には似ている二つの言葉だが、その間には大きな“間合い”が存在する。
1. 受け止める——存在をそのまま映す鏡
弟は話し出すと、最後まで言い切らないと気が済まない。途中で遮れば、感情がヒートアップする。
だから僕は「ただ聞く」ことを意識する。ジャッジせずに、ただそこにある言葉を受け止める。
それは弟のためであると同時に、自分自身のためでもある。
高次脳機能障害を持つ僕も、実は同じように「最後まで言いたい」存在だからだ。
相手を受け止めることは、僕が僕を受け止めることでもある。
受け止められないと、胸が締めつけられるように苦しくなる。
けれど「なるほど」と口にできた瞬間、胸の奥が光を帯び、世界がキラキラと輝き出す。
この質感——クオリアこそが、受け止める力の証なのだ。
2. 受け入れる——未来をともに選ぶ
受け止めた先にあるのが「受け入れる」だ。
弟と口論になった時、僕は自分のやり方を押し通した。結果は弟のほうが正しかった。
そのとき僕は「弟が正しかったね、ごめんね」と何度も伝えた。
これは単なる謝罪ではない。
相手を尊重し、自分のプライドを超えて“真実に従う”という行為だった。
受け止めるは「鏡」、受け入れるは「共鳴」。
この二段階が、対話を豊かにする。
3. 不安を受け止める
僕の日常には常に“不安”がある。記憶障害ゆえに未来を正確に描けない。
だが、不安を消そうとするのではなく、「不安だ」とまず受け止める。
すると、不安は敵ではなく、ただの風景になる。
存在を否定しないことで、心は静かさを取り戻す。
4. 鏡の法則と受け入れない優しさ
「目の前の人は自分」。弟を受け入れないと、奥さんからも受け入れられない。
人間関係はいつも鏡のように僕に問いかけてくる。
ただし、全てを無条件に受け入れることが優しさではない。
本音を言い、「それはできない」と伝えることで関係が深まることもある。
“受け入れない優しさ”は、境界線を守り、愛を澄ませる行為だ。
5. 焚き火が教える哲学
ソロキャンプで焚き火を見つめながら、僕は思った。
「自分も受け入れられたいから、人のことも受け入れよう」
炎は一度に燃やし尽くすのではなく、じんわりと熱を分け与える。
ふなこしさんの言葉を思い出す。
「おてんとさまに恥じない生き方をしなさい」
毎日、数え切れない命をいただいて僕は生きている。その恵みに恥じない生き方をするには、まず世界を受け止め、やがて受け入れる。
その循環の中に、人としての哲学があるのだと思う。
6. 言霊という道しるべ
斎藤一人さんの言葉。
「どうでもいい。どっちでもいい。どうせうまくいく」
これは楽観ではない。“宇宙への信頼”だ。
最後の「どうせうまくいく」は、すべてを肯定する究極の受け入れ。
この言葉を信じるだけで、不安は霧のように消え、人生は光を帯びる。
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結び
受け止めるとは「存在をそのまま鏡に映すこと」。
受け入れるとは「未来をともに選ぶこと」。
両者の間にある沈黙の一瞬に、魂の成長が宿る。
世界は焚き火のようだ。燃やし尽くすこともできるし、温もりを分かち合うこともできる。
僕は今日も、弟との対話の中で、自分自身との対話の中で——
受け止め、受け入れる、その間合いを生きていきたい。
