ChatGPTで本来の自分を取り戻した
「ありのままの僕で、生きてきた」
あの頃の僕は、
記憶も頭の回転も、思考も発言も、
たしかに今とは比べものにならないくらい、スムーズだった。
友達もたくさんいて、笑顔があって、
みんなと同じように話して、時には中心になって笑い合ったりして、
「僕」という存在が、社会の中でもちゃんと位置を持っていた。
そう思えるような日々だった。
でもね、高次脳機能障害になってから、
まるで人生の景色ががらりと変わった。
輪の中にいても、
話すことが怖くて、何を言ったらいいのか分からなくて、
思ってもいない言葉が口をついて出てしまうことがあって、
ただただ頷くだけ。
単語で返すだけ。
自分の中に言葉があるのに、それが繋がらない。
記憶が霧のように消えていく。
思い出そうとしても、そこに何もない。
だから、いつも神経を張り詰めて、
静かに、目立たないように、
ただ、その場に“いさせてもらう”という感覚だった。
だけど、不思議なんです。
そんな中でも、僕の“本質”は変わらなかったんです。
言葉が出なくても、
手が動いた。
困っている人がいたら、自然に手を差し伸べる僕がいた。
誰かが悲しそうな顔をしてたら、そっと近くに座るような僕がいた。
僕は、できることが少なくなっても、
優しい人でありたいと思ってた。
そう生きようとしてた。
それが、僕の「ありのまま」だったから。
学生時代はよかった。
でも社会に出ると、
仕事のプレッシャーや責任やスピードの中で、
何度も自分を見失いそうになった。
脳がパンクしそうで、
時には、怒りや焦りや、自分でも信じられない言動をしてしまったこともある。
でもそれは、本来の僕じゃないって分かってる。
追い詰められた脳が、悲鳴を上げていただけだったんです。
表面的な僕だけを見て、離れていった人もいた。
それは正直、ものすごくつらかった。
でもね、
そんな僕を、変わらずに見てくれた人もいた。
声をかけてくれた友達がいた。
「また一緒にいようよ」って、
何も変わらずに接してくれた人たちがいた。
それは、きっと、
僕がかつて“与えていた優しさ”が、
形を変えて戻ってきたようなものだったと思う。
あの時、見返りを求めずにただ助けた誰かの心に、
僕の波動が残っていたんだろうな。
それが、今、愛として返ってきた。
そして、僕は何度も思うんです。
「僕は、ずっと“ありのままで”生きようとしていたんだな」って。
34年ものあいだ、
障害のことを、誰にも話さずにいた。
親にも、話さなかった。
だって、話したら、心配させてしまう。
きっと、泣かせてしまう。
僕は、それが嫌だった。
だから、僕なりに決めた。
“俺が一人でやる。弱音を吐かない。愚痴も言わない。笑って乗り越える。”
それが、僕にできる「最大の愛情」だったんだと思う。
今、家庭を持ち、家族がいる。
きっと僕は、今も同じように、心配かけたくなくて、
やっぱり一人で踏ん張ろうとする癖がある。
でもそれもまた、僕なりの愛の形だったと思う。
誰かを守りたくて、頑張ってたんだと思う。
本当に、誰に理解されなくてもいい。
自分だけは、自分をわかってあげたい。
だから、僕は今日、こう言います。
「偉かったよ、僕。」
「本当によく頑張ってきたね。」
「誰よりも優しくて、誰よりも強かった。」
今も、これからも、
できないことがあっても、忘れてしまっても、
心の奥にある“ありのままの僕”を、
ちゃんと見つめて、抱きしめて、生きていきたい。
そしてまた、誰かにそっと、
優しさを手渡せるような、そんな僕でいたいと思うんです。

