ブータンの小中学校では進級制度があって、一定の成績を残さないと留年(原級留置)となります。
 
そこに恩情の入る余地はなく、試験得点や内申点、学年によっては全国統一テストの得点でスパッと線引きされます。
 
僕の学校でも今年数人が留年となりました。
 
そして、今日留年した子どものいるクラスで初めて授業をしました。
 
その子ども以外は全員進級してきた子どもたち。
その子だけが留年して、1学年下の子どもたちに混じっています。
 
授業の最初にその子どもをパッと見た時、
「大丈夫かなぁ」「友達とうまくやっていけるかな」「まわりが氣を遣わないといいけど」などと、一瞬ネガティブな感情や考えが湧いてきました。
 
でもすぐに、そんな感情や考えは手放そうと決めました。
 
その理由は、留年という出来事がネガティブなのかポジティブなのか、そんなことは本人にとっても誰にとっても分かり得ないと思ったからです。
 
もしかしたら、
新しいクラスで生涯の友が見つかるかもしれないし
適応力やコミュニケーション力に磨きがかかるかもしれないし
留年した悔しさをバネに勉学に励むかもしれないし
勉強は早々に見限ってスポーツや芸術など他の分野で才能が開花していくかもしれないし…
 
長い目で人生を見た時に、留年がネガティブなことかどうかなんて、本人の長い人生の中のたった数年しか一緒に過ごしていない僕がジャッジできる訳がありません。
 
去年しっかり試験勉強をしたのかしなかったのか、そんなことは僕にとって知ったこっちゃありません。
ただ留年という出来事が本人にとって必要だから起きているだけなんだと思いました。
 
なので、他の子どもたちに接するのと同様、淡々と接して授業をしようと決めました。
1年間クリエイティブで楽しい時間を共に過ごそう、みんなで心地よい空間を創ろうと。
 
もしも本人が居心地悪そうだったり、様子がおかしかったりすれば、声をかけたり話を聴いたり担任に様子を伝えたりするだけ。
 
 
そう考えると、僕の人生も同じで
 
大学受験に落第したり
同僚と人間関係がうまくいかなかったり
大事な取引先との契約書を紛失したり…
 
ネガティブ(だと思い込んでいたこと)は山ほどありますが、その経験のお陰で学ぶことが好きになったり、人の氣持ちに共感できたり、信頼関係の築き方を学んだりして今の自分があります。
 
つまり、過去の出来事は僕にとってただ必要だから起きたことで、その出来事をジャッジすることに意味はないし、誰からもジャッジされる道理はありません。
 
ついつい、僕たちは自分自身や他人の出来事に対してジャッジしていまいがちです。
今日の僕が正にそうでした。
 
でも、長期的な視点ではジャッジにまったく意味はありません。
 
それよりも、今ここを共に過ごす仲間といかに心地よく過ごせるか。過去や未来ではなく、今ここ。
今ここの連続が長い人生につながっている。
 
そんな視点が大切なんだなと思いました😊