狭山 工房便り

狭山 工房便り

おかっぱ頭の女の子 はにわちゃんの埼玉日記
執筆している私は普通のオッサンです。

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新年おめでとうございます。

 

はにわです。

 

お正月、いかがお過ごしでしょうか。

 

健康第一、健康に恵まれた1年でありますように。

 

また病気療養中の方々の祈りを神がききいれてくださいますようにお祈りいたします。

 

iubilaeum2025.va/content/dam/iubilaeum2025/inno-giubileo/Hymne_Pilger_der_Hoffnung.mp3

 

2025年は聖年です。

 

バチカンの聖なる扉がひらかれました。

 

上にリンクした讃美歌は聖年のテーマです。

 

各国に翻訳されています。

 

上はドイツ語への翻訳です。

 

私は6月にドイツ語検定3級を受けます。

 

絶対合格します。

 

今はまだなにを歌っているのかききとれません。

 

まあ独検3級に合格しても歌はききとりにくいのでやっぱわからないままかもしれないですが、

がんばります。

 

自分はもう一度ドイツに行きたいしドイツに行くのなら僕たちの総本山であるバチカンに行きたいのです。

 

死ぬ前に1度でいいのでバチカンに詣でたいのです。

 

そしてもしもドイツ語を活用し日本とドイツとでなにがし商売ができるのであれば人生最後の仕事として

がんばりたいのです。

 

漠然としていて具体的にどんな仕事ってわからないのですがドイツ語圏の人たちと日常的にまじわっていれば

なにか仕事につながることがあるかもしれないですね。

 

な感じでよい一年でありますように。

 

 

 

ほんとうはメタボのおっさんだけどおかっぱあたまの女の子はにわちゃんより

 

 

 

十字架上のキリストへの祈り

主よ 私があなたを愛するのは

あなたが天国を約束されたからではありません。

あなたにそむかないのは

地獄が恐ろしいからではありません。

主よ 私をひきつけるのは

あなたご自身です。

私の心を揺り動かすのは

十字架につけられ、

侮辱をお受けになったあなたのお姿です。

あなたの傷ついたお体です。

あなたの受けられた恥ずかしめと死です。

そうです 主よ。

あなたの愛が私を揺り動かすものです。

ですから たとえ天国がなくても

主よ 私はあなたを愛します。

たとえ地獄がなくても

私はあなたを畏れます。

 

あなたが何もくださらなくても

私はあなたを愛します。

望みが何もかなわなくても

私の愛は変わることはありません。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

絶対言ってはいけない。

 

でも僕は言う。

 

ザビエルって「キチガイ」(笑)

 

「変態」(笑)

 

どんな姿だったのか?

 

どんな声だったのか?

 

400年前だしなんもわからない。

 

でもこの人はキチガイにして変態だけどどこまでも天国に近くにいてなにもかにも超越した人だと思っていて。

 

キリストを知らずともザビエルとその歩みを知ることできっと人はキリストを知るんじゃね??って思うのだ。

 

 

キリストは愛した。

 

愛されたものはキリストを愛する。

 

でもこんなに強いキリストへの愛があるだろうか。

 

 

いったいどんな人だったのだろうか。

 

 

完全な人ではないということは書簡などを読んでいるとなんとなくわかるのだ。

 

つまりものすごく人間味がある人だと・・・・

 

いたらないところがあって自分でも気が付かないところもあって人間臭いのだけれどもね。

 

なんだかわからないのだけれども少しでもザビエルのようになれたらって思うのだ。

 

イエス様をほんの少しだけ・・・・ザビエルには及ばないけど・・・・好きになって・・・

 

ただイエス様のためだけに生きていけたらってね。

 

 

 

なんか、2月に明けましておめでとうございまするとかわけわかんないアップやってるけど。

 

今日は今年2回目のアップです。

 

 

脳って不思議。

 

記憶の引き出しがあって生まれてからのことを全部憶えているという話しをきいたことがある。

 

 

でも引き出しになにが入っているかはなにかきっかけがないとわからなかったり。

 

 

 

今日はお酒を飲みながら母と話していてほんとうに古い記憶がテレビの映像がきっかけでよみがえってきた。

 

 

ひとつはミルクの話し。

 

 

日本橋に住んでいた祖母。

 

小見川に生まれ小見川で育った祖母。

 

僕がたぶん高校生の頃だろう・・・・ミルクの話しをしてくれたことを思い出した。

 

 

祖母はお酒は飲めなかったしコーヒーも飲めなかった。

 

日本橋で暮らしていて喫茶店に行きミルクを飲んでいたそうだ。

 

喫茶店だしそれなりのお値段もするし喫茶店で出す「ミルク」は美味しいと思って行っていたそうだ。

 

ところがある日、普通の牛乳をグラスに注いでいるのを見て特別のものではないと知ったと言う。

 

 

まあちょっとした笑い話しかな。

 

 

あとひとつ・・・・

 

ここまで書いて忘れてしまってどうにも思い出せなかったのだけれどもテレビでAIのことをやっていて

思い出したことがあった。

 

なんと僕が中学生の頃の記憶だ。

 

AIがあれば通訳も翻訳もいらないと母がテレビを見て言っていて思い出したのだ。

 

 

中学の時、美術の先生で根本という名前だったろうか・・・おじいさんだった。

 

絵をかくことが好きな先生だった。

 

授業では絵を僕たちにかかせる。

 

いつもニコニコしていてあまり話さない。

 

みんなが絵をかいているのを順番に見ていきここはグッ、グッとこんな感じでかきなさいなどと短く指導していた。

 

 

「豆腐の角にあたまをぶつけて死んじまえ」

 

先生はいつもニコニコしていて穏やかな人だったけど口癖のように「豆腐の角にあたまをぶつけて」と言っていた。

 

冗談を言って僕たちを笑わせようとしていたのだろう。

 

そんななにも話さずただ笑っているだけの授業だったのだけれどもある日ヨーロッパに旅したことを話してくれたことがあった。

 

まったく英語もなにもできないでヨーロッパに行ったという。

 

どうやって買い物をしたり宿に泊ったりできたのかということを話してくれた。

 

それは絵をかくことで相手に伝えるということだった。

 

言葉がわからなくとも絵をかいて伝えるのだ。

 

そんな風にして先生はヨーロッパを旅したのである。

 

うん、今の僕はお酒もはいって酔っている。

 

だからここで終わらずにもう少し書かせてください。

 

小学生、中学生と知り合いであり友人だった桜井俊夫君。

 

彼とは高校になってからよく一緒に行動していた。

 

彼は高校にはいかなかった。

 

勉強はできたほうなのだけれども高校に行く意味はないと言っていた。

 

僕にも受験なんかするなと言ったことを思いだす。

 

本の虫だった。

 

多読家だった。

 

僕も高校に入ると書籍をよみふけった。

 

そもそも彼とは中学時代は本を通じての友人であったようにも思うのだ。

 

たくさんの本があるところを知りたくて二人でいろいろ探していたら神田神保町に書店がたくさんあるということが

わかって中学2年の時に本を買いに神保町に行った。

 

高校になっても僕と桜井君は本を通じてつきあいが続いていた。

 

高校1年の時だったか桜井君はヨーロッパの文学作品をよみふけっていてなかでもビクトルユーゴに傾倒していた。

 

中卒だし中学の英語しかわからないのに彼はヨーロッパへと旅立った。

 

英語は話せないのに長期の旅をしたのだ。

 

フランスだけではなくかなり広域でヨーロッパを旅した。

 

絵をかいて食料品を買ったり宿にとまったりということではなくともかく単語を並べるのだそうだ。

 

たぶん、「私 買う これ」とか「泊る 料金」とかそんな感じで英単語を告げたのだろう。

 

そのうち、英単語をただ並べていくという彼流のスタイルがスムーズに行くようになったという。

 

僕が知る範囲でもデンマーク、フランス、イギリス、いろいろな国をめぐっている。

 

いったい旅費はどうしていたのだろうかとも思う。

 

現地で働いたりしていたのだろうか。

 

彼は帰国すると僕に長い手紙を送ってきた。

 

ヨーロッパでのいろいろが書いてあった。

 

本も読むし文章も書くしそんな友人だった。

 

高校1年の時になぜかしらドイツ語を一緒に勉強しようと参考書を買いに神保町に行ったこともあった。

 

僕の家に帰ってきて二人でドイツ語の勉強をスタートした(笑)

 

当時はひげ文字も普通に憶えなくてはならなかった。

 

記憶は消えないで脳の引き出しの中にしまってある。

 

なにかがきっかけでよみがえる。

 

それでも蘇らない記憶は完全に死んでしまった記憶なのだろうか。

 

それは違うと言う。

 

どうしてもおもいだせない記憶というものはその時とまったく同じ状態になると思い出すと言う。

 

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

 

ご挨拶が遅れましたが、本年もよろしくお願いいたします。

 

 

いきなりですが、はにわは40年ほど前に船橋で暮らしていました。

 

少女隊が頑張っていて、船橋の街にも曲が流れていました。

 

 

 

 

 

少女隊 ハレーロマンス (youtube.com)

 

 

あのころはもうトモだったと思います。

 

チーコではなくてネ。

 

僕は船橋の雑居ビルの地下にあった店で少女隊のカセットを買ってSONYウオークマンできいてました。

 

 

1980年代のことですよ(笑)

 

そんな昔の話しをしませんか??

 

 

はにわからのリクエストです。

 

 

 

大学を出て山崎製パンに就職しコンビニ部門の子会社に出向となった。

 

最後に働いていたところは船橋だった。

 

船橋で少女隊のカセットテープを買って、ウオークマンで聴きながら船橋の寮で眠った。

 

素敵になってダーリンはまだチーコがいた頃のヒット曲だね。

 

 

 

 

 

(7) Shohjo Tai 素直になってダーリン Darlin' with my love - YouTube

 

 

 

サラリーマンだった僕にとって少女隊が活躍している外の世界にあこがれていた。

 

 

今、聴いてもとてもいい曲だと思う。

 

僕も少女隊もまあ同世代。

 

今はお孫さんがいておかしくない年齢だ。

 

そのうち僕はおじいさんになるし少女隊もおばあさんになっていく。

 

 

 

大学1年の時、「成毛章浩バンド」というを組んだ。

 

その時、なにをコピーしようかなあと思ってリトルファンタジーからフォーユーにしようかときいていた。

 

結局、それはやらなかったのだけど、尾崎亜美さんは僕にとっては天才だった。

 

高校時代に「あなたはショッキングファイン」をラジオで聴いたんだよ。

 

伊藤強さんが紹介してくれて流してくれた。

 

音楽評論家の伊藤強さんも僕はすごく尊敬していたのだけれども、ともかくすげー曲だと感動したね。

 

それから亜美さんのファンになってLPを集めた。

 

 

 

(1) For You - YouTube

 

 

1979年のLPだったけどニューミュージックでは加藤和彦さん、大貫妙子さん、鈴木茂さん、浜田金吾さん、佐藤博さん、

山下達郎さん、矢野顕子さん、近田春夫さん、杉真理さん、よくきいていた。LPは買わなかったけどYMOももちろん。

 

 

 

今日は歯の激痛があり仕事はほとんど進まなかったのですが、冥途喫茶Ⅲの細かい部分の修正などが終り最終的な販売DVDが3分前くらいにできあがりました。

あと今気が付いたのですが、これまで冥土喫茶と書いていましたが、

正しくは冥途喫茶でした。

 

なかなかたいへんな編集でした。

 

今回は僕の提案がありクレーンを使用しました。

 

販売DVDということでクレーンを使った映像はよかったと自負しています。

 

直前になってプロデュ―サーにお願いするとなんとか席を空けましょうということで

6席つぶしてもらいクレーンを設置しました。

 

次回の収録は来月となりますが、会場の関係でクレーンの設置は難しいです。

 

後方に設置したらどうでしょうかと今日プロデューサーと相談したのだけれども、

近くになってお客さんの入り状況でクレーンの設置をなるだけできるように

配慮してくれるということでした。

 

今回の冥途喫茶ⅢのDVDではほんとうに最後のカーテンコール前で

ビシバシ使っています。

DVDは以下から購入することができます。
 

 

冥途喫茶Ⅲ ‐ 三河高校 定時制篇 DVD発売のお知らせ | オールグリーン ALL GREEN (allgreen-go.jp)

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

8月15日は聖母マリアの被昇天ミサがあります。

被昇天まで健康で頑張ろうとやってきたわけですが、今年は疲労から歯周病となって

しまいました。

痛みどめを飲んでブログを書いています。

台風も近づいてきているし、被昇天のミサも大丈夫だろうかと懸念しています。

所属教会のミサにあずかれない場合は川越か所沢のミサにあずかることに

なるでしょう。

週一で法典の湯で健康管理ということはこれから守っていかなければならないことですが、歯周病も治っていないということもあるし明日は地元で療養しようかとも

考えています。

体調を整え来週から週一で法典というサイクルでもいいと思います。

免疫力を高める食べ物ということで今日はキノコと納豆をスーパーに買いに行きました。

生クリームが悪くならないようにということで冷蔵庫の整理をかねてキノコのクリームパスタにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

免疫力を高め歯周病を治そうと思います。

 

 

僕の一年は

 

神の母マリアの祝日 1月1日

 

新春のつどい(東京芸術座) 2月くらい

 

復活祭 春

 

法典の湯 生ビールフェア 8月第一週

 

聖母マリア被昇天ミサ 8月15日

 

長崎巡礼とB級グルメの旅 10月24日前後

(ここ数年は長崎に行っていない)

 

 

クリスマス 主の降誕 夜半のミサ 12月24日 夜

 

12月30日 一人だけの忘年会 市川と船橋。 鈴家(市川)で年越しそば

 

今年は被昇天ミサまで健康を保ちということではダメでした。

 

こんなときは地元で身体を休めたほうがよいのではと思います。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

新年おめでとうございます。

 

 

管理者である僕、ハニワちゃんすら立ち寄らないブログでありますが、さきほどこのブログのことを思い出しまして、

新年のあいさつ申し上げます。

 

ちなみに本日、ここにお立ち寄りいただいた方の数は「0」でした(笑)

 

ほんと誰も立ち寄らないブログです。

 

重複してしまうけどブログを管理している本人も立ち寄らないブログなのですから(笑)

 

 

今日は届いた年賀状から大昔のことを思い出しました。

 

カトリックの洗礼を受けた僕。

 

教会の仲間からの年賀状の添え書きに

 

「関口教会も世代交代が進んでいますね」

 

とありました。

 

僕と一緒にシスター中島のキリスト教入門講座を一年間受講し1996年に受洗した兄弟からの年賀状です。

 

今日はすき焼きを食べてお酒を飲み、テレビを見ながら母といろいろ話していました。

 

そんな中、世代交代みたいな話しがでたので関口教会の兄弟からいただいた年賀状の添え書きを思い出したのです。

 

 

ちょうどテレビではバナナマンが食べ歩きをしている番組だったし、年賀状の世代交代という添え書きと重なって

33年前の思い出がよみがえってきました。

 

母にその話しをしたのだけれども、母はテレビに夢中になっていてしっかりと僕の話しはきいていなかったみたいです。

 

 

年頭の挨拶がてら・・・・あまり新年とは関係がない話しではありますが、母に話した33年前の話しをしたいと思います。

 

 

 

33年前・・・・僕は池袋にあった技術会社のN川氏にお世話になり、テレビ番組の現場で修行していまいた。

 

平成元年に映像プロダクションを立ち上げ、演劇舞台やコンサートの撮影をしていたのですが、

誰からも指導を受けておらず自己流でした。

 

映像の仕事をしているのならテレビの世界で頑張りたいと思っていて、テレビ番組の仕事がしたいと思っていた20代が終わろうとしている僕でした。

 

観光地ビデオ制作のプロデューサーのS氏と一緒に次の観光地ビデオでの打ち合わせでカメラマンのN氏とファミレスで会いました。

 

N氏はテレビ番組でカメラマンをやっていて、テレビ関係者とはじめてであった僕でありました。

 

もちろんテレビ番組の仕事がしたくてうずうずしている頃でした。

 

ファミレスでN氏からうちで仕事をしないかと声がかかりました。

 

僕にやってきたチャンスでした。

 

 

はじめは三脚のかつぎ方とかホワイトボードでホワイトバランスをとるとかほんとうにお手伝い的な仕事からスタートしました。

 

 

N氏は僕がテレビ番組で働けるかどうかというテストをしようとしたのかもしれません。

 

あるとき、ものすごくハードな仕事をすることになりました。

 

それがテレビ番組の仕事ができるかどうかというテストだったと思います。

 

 

N氏が撮影するのですが、当時は50メートルくらいあるケーブルがあり、ケーブルをさばく「ケーブルマン」の

仕事でした。

 

N氏は走り回り撮影しました。

 

もしも僕がN氏に追いついていけずにケーブルをさばかないとN氏は転倒してしまうかもしれないのです。

 

自分は必死で頑張りました。

 

ものすごい肉体労働でした。

 

 

休憩時間になり副調整ステーション(スイッチャー収録のステーション)に行くとテクニカルディレクターが

僕をからかうように言いました。

 

 

「死ぬかと思った?」

 

 

自分は死ぬかと思ったのですが、顔には出さなかったと思います。

 

そして言いました。

 

「いや、全然、なんともないですよ」

 

僕のはったりでした。

 

 

そしてこの仕事を終えたとき、N氏は思ったのでしょう。

 

「こいつだったらテレビの現場でもやれるぞ」

 

 

N氏からその後すぐにテレビの仕事があるのでやらないかと声がかかりました。

 

やっと憧れの仕事ができる!!

 

はじめは三脚持ちでした。

 

三脚を肩でかつぎ、ディレクターがここと言ったら2段、3段とディレクターの指示通りにすばやく三脚をたてるという

仕事。

 

 

もう僕は30代になっていました。

 

テレビの世界では30代は若くはなかったと思います。

 

20代、30代のメンツでの仕事でした。

 

自分は30代に入ったのにまだ三脚持ちでした。

 

テレビ番組なのでテレビでしか見たことがない有名なタレントさんも一緒にロケ仕事をしていたわけですが、

撮影の前に喫茶店などで顔合わせをすることがありました。

 

今回ディレクターを担当します**です。アシスタントディレクターの**です。カメラマンの**です。

制作と技術とでだいたい当時は6~7名のスタッフでした。

 

制作と技術と紹介されるのですが・・・・・自分だけが紹介されなかったです。

 

だって、ただの三脚持ちだから(笑)

 

 

三脚持ちの仕事と言えば上に書いたように三脚を立てることやホワイトボードを開いてホワイトバランスをとることくらいです。

 

タレントさんも話しかけてくれないし、みんなからただの下っ端といった目で見られているような立ち位置でした。

 

 

でもそれから僕は頑張りました。

 

ビデオエンジニアになったのです。

 

当時はVEなどと言われていました。

 

ディレクターと意思疎通を保ち技術スタッフにもディレクターの意思を伝えたり、モニターを見てカメラマンにある程度の

指示をしたり、ディレクターの要望をカメラマンにフィードバックさせるような仕事です。

 

それと同時に技術スタッフがきちんとできているかもチェックしたり、撮影したロールに撮影内容を記述するという仕事

でした。

 

 

カメラの複雑な設定も自分がやっていました。

 

たとえばNHKと民放ではタイムコードの設定が違っていたので、そういった設定も僕の担当でした。

 

ビデオエンジニアは技術と制作のあいだをとりもっているような・・・そんな仕事でした。

 

だからディレクターからかわいがってもらうということもありました。

 

当時は技術と制作とが喧嘩しているようなところがあって、カメラマン(技術)はディレクター(制作)の

批判をするということもよくあったし、制作は制作でこっちが使っているのだというようなプライドもあったと

思います。

 

なんというか技術を下に見ているというかね。

 

 

わかりやすく言うとディレクターが偉くてカメラマンはただ使っているだけだという感じ。

 

 

もっともドキュメント番組などではその立場は逆転していて、カメラマン次第というところもありました。

 

だって、ドキュメント番組ではいちいちディレクターがこう撮ろうとか、このカットはOKでこのカットはNGだから

もう一回撮ろうなんて言わないから。

 

 

カメラマンがともかくなにがし心の中を語る人に自然に語ってもらえるようにうまくやっていくという感じですからね。

 

こんな感じで話していくといつになったら本題に移れるのかわからないですね。

 

そんな33年前の思い出の中から本題へと行きたいと思います。

 

 

ロケのチェーンでもディレクターから信頼されバリバリに頑張っていた頃にN氏からグルメ番組のロケに行かないかと

誘いがありました。

 

 

蟹の取材でした。

 

N氏はうまい蟹がたらふく食べられるぞと誘われました。

 

N氏もテンションが高く・・・・蟹の中でもほんとうにうまい蟹が食べられるということで生き生きとしていました。

 

船に乗ったり、連泊してのロケでした。

 

 

自分はしかし乗る気ではなく断りました。

 

なぜ断ったのかは思い出せないのですが、自分は自分で舞台の撮影など本業があったわけだし、

連泊してまでテレビの仕事はしたくないと思ったのかもしれません。

 

 

僕はみんなをみおくりました。

 

ほんとみんな、うまい蟹が食えるということでほくほくの笑顔だったと記憶しています。

 

 

数日がたち技術チェーンが戻ってきました。

 

僕は言いました。

 

 

「どうだった? 蟹?」

 

 

するとN氏は苦虫をつぶしたかのような表情となり言いました。

 

 

「成毛 はじめはみんな大喜びだった。ほんとうまい蟹を食べることができて。

でも毎日毎日蟹ばかり食べていたら匂いをかぐだけでもう嫌になった。

このロケで一番うまかったのはご飯とおしんこだった。」

 

 

ほんといろいろな種類の高級な蟹をたべたということでみんな感動していたということ。

 

 

どれだけうまいものでも毎日そればっか食べているともういい、やめてくれということになるようでした(笑)

 

 

やっぱり僕が仕事を断ったことは正解だったかもしれないですね。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

ずっとあるものだと思っていたしなんとなく撮っただろね。

 

 

 

たちぐいそば屋があって、たこ焼き屋はまだなかった感じだな。

 

 

 

竹之家の外観写真ってこんな全体が写っているのはないと思っていたけど撮ってましたね。

 

こんなに老朽化した店だったんだね。

 

 

船橋で二番目に古くから営業している街中華だった。

 

 

 

 

 

 

 

11年前に鉄フライパンを買ったみたい。

 

こんないい鉄フライパンだ。

 

 

24cm。

 

全然記憶にないのだ・・・・・・

 

 

 

今の僕は鉄フライパンを買ったばかりで鉄フライパンにはまっている。

 

 

なんで11年前にこんなフライパンを買ったのだろう???

 

 

実は今日も鉄フライパンを使ってステーキを焼いた。

 

肉を焼いたりするのは鉄フライパンがいいみたいだ。

 

ガーリック、日本酒、塩胡椒、醤油。

 

はじめは強火で肉を焼いて、肉が焼けたら肉だけをとりだし、残った脂、ニンニク、日本酒、塩胡椒、醤油にライスを入れて

「ガーリックライス」

 

 

ほんとはここにバターを入れれば「ガーリックバターライス」になった。

 

 

肉のうまみがあって最高。

 

フライパンに残ったうまみを捨てることなくネ。

 

 

 

 

これは11年前じゃないけど、たまたま今、目に入ってきたから。

 

 

 

 

 

 

はじめてネットにアップするピンボケの写真。

 

ピンボケだからアップされることがなかったってわけさ。

 

 

 

 

こいつはガンで死んじまったけど俺のかけがえのない親友だった。

 

 

 

それで俺も撮ってくれとカメラを渡したらハタヤンもピンボケ写真だわ。

 

 

2006年12月の船橋の味中味での写真だ。

 

 

池袋に住んでいたハタヤンだけど、船橋まで嫌な顔せずよく来てくれたよ。

 

こいつと最後に会った時だったか、それとも最後に会った日の少し前だったか、池袋の居酒屋で飲んでいろいろ話したよな。

 

 

そうそう最後に会う前だった。

 

正月だったかな。

 

こいつとは20数年間のつきあいだったけど、一度も女のこととか恋愛とか話しをしたことはなかった。

 

最後にハタヤンと飲んだその日にいろいろ話してくれたよ。

 

俺はハタヤンのことをエロガッパなんて呼んでいたけど、ハタヤンにも若い時代があったみたいだ。

 

20代のころに彼女がいたそうだ。

 

こいつはナイーブで優しい性格だったし、やたら女に気を使ってものすごく疲れたなんて話しをきいた。

 

どんな結末だったかは聞かなかったけど、ハタヤンはその時から女はもういいと思った、結婚はあきらめたと話した。

 

まあずばり言うと性欲は風俗で処理することにしたそうだ。

 

男と男の話しだからそんな話しもしたけど、ハタヤンも俺ももちろん女性とのおつきあいは性欲がメインじゃないってことは

ちゃんとわかっての話しだよ。

 

ハタヤンは競馬とパチンコやってたね。

 

もちろんメッチャまじめに働いていたし、こいつはこう見えても製本会社の社長だった。

 

かせぐときは月に100万もかせいだ。

 

金が入ると節度をしっかりまもりつつ競馬とパチンコやってたね。

 

で、儲かると風俗に行っていた。

 

ほんといいやつだった。

 

俺はこいつのことを「貴様」とか呼びつけにしていた。

 

俺より何歳も上だったのにネ。

 

「この野郎!!」とか「貴様!!」なんて年上のハタヤンのことを呼んでいた。

 

それだけ親しかったってわけさ。

 

最後に池袋で飲んだとき、俺は車だった。

 

飲んだというより仕事の帰りだった。

 

日韓演劇フェスティバルの下見ということでハタヤンとあうるすぽっとに行ったのだ。

 

たしかあうるに行く前に二人で撮影したんだった。

 

撮影後のお疲れ様ということで池袋の中華料理屋に行ったのだけれども撮影をやってもらったわけだし僕がごちそうした。

 

20数年間のつきあいの中で彼はただの一度も自分だけビールを飲むなんてことはなかった。

 

でもこの時、彼はビールを注文し、一人で飲んだのだった。

 

お別れの酒だったんだね。

 

腰が痛いとコルセットをしていたのだけれども、それはガンがあちこち転移して腰にまで行ったからだった。

 

製本会社は廃業してしまったし、荷物の仕分けのアルバイトをはじめたハタヤンは荷物を持ったりしているから腰が

痛いのだと思い込んでいた。

 

でも病院に行ったら末期のガンと宣告されたのだ。

 

ハタヤンは俺に心配かけまいとずっと嘘をついていた。

 

入院しているけどすぐよくなるからと一点張りだった。

 

でも何度か電話するとガンだと僕に言った。

 

それでも退院してよくなったら会おうなんて言っていた。

 

そのときにはもう終わりを宣告させていたはずだ。

 

最後の最後に電話したとき、やっともう終わりだと言った。

 

だから面会にきてもらいたいと。

 

でも僕は行かなかった。

 

そしてハタヤンは死んだみたいだ。

 

それでも僕は行かなかった。

 

なんでだろうか。

 

なにを考えていたのだろうか。

 

でもあれからハタヤンを忘れた日はない。

 

日韓演劇フェスティバルから10年以上がたつけど、毎週、ミサでハタヤンのこと、祈っている。

 

ハタヤン。

 

俺が天国に行ったときには迎えてくれよな。

 

 

俺は言うだろう。

 

「貴様、この野郎!! 俺より先にこんないいところに来やがって!! さあ、のみに行くぞ、久しぶりにな」