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志村康太です、こんにちは。

 

数々のヒット曲を生み出したブリティッシュ・バンドの「クイーン」。

フレディ・マーキュリー」はその中でも志村康太にとってはお気に入りの人物です。
 

そんなフレディを題材にした2018年に公開された映画「ボヘミアン・ラプソディ」は興行収入を含め多くの功績を記録しています。

フレディの生涯は多くの人を引き付け、そして儚くもエイズという当時不治の病とされていた病気で早くに亡くなってしまいます。


今回は、志村康太がそのフレディの人生を振り返ってみようと思います
 

志村康太が辿るフレディ・マーキュリーの経歴
フレディは、当時イギリスの保護国として認定されていた、ザンジバル島で生まれます。
ザンジバルはアフリカ大陸の東に位置する島国です。
父はインド人、母はイギリスから来た駐在人でフレディはハーフとして生まれています。


その後マーキュリー家はインドに移ります。
フレディは幼少期のほとんどをインドで過ごしますが、この時点で音楽の才能を発揮させていました。
英国式の寄宿学校に通っていたフレディが学校の仲間と一緒にスクールバンドを結成していたのです。
 
再びザンジバルへ渡ったマーキュリー家ですが、そこでまさかのザンジバル革命が起きてしまいます。
多くのアラブ人・インド人が殺されていく中で、マーキュリー家はイギリスへ逃れるのでした。
 
フレディは、イギリスに渡ってからはデザイン系の学校へ通う事になります。
彼の奇抜なファッションセンスはここで磨かれたと言っても良いでしょう。
実際にフレディが書いたとされる衣装のデザインをフレディの母親が発見しています。
 
卒業後は再び音楽に没頭し、数々のバンドを転々としますが、どこも解散してしまいます。
その間は、後にクイーンのメンバーとなるロジャー・テイラーと共に古着屋を始め、空港でアルバイトをするなどして食いつないでいました。
そして1970年にブライアン・メイが所属する「スマイル」にボーカルとして加入し、バンド名も「クイーン」に変更します。
 
1974年には初の大ヒット曲「キラー・クイーン」を発表します。
その後「ボヘミアン・ラプソディー」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」「レディオ・ガガ」など大ヒットを連発し、大きな地位を占めるようになりました。


志村康太のまとめ 
フレディとメンバーの不仲から一時解散するというトラブルといった、悩みが絶えない人物であったといわれています。 
フレディはそんな中、亡くなる直前まで大好きな音楽を続けるのでした。

彼の栄光を、志村康太も永遠にたたえたいと思います。

以上、志村康太でした。

 

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