
心、境界線④
「わぁ、ありがとうございます!」
ウンスは手に渡されたコーヒーと期間限定のパイに歓声を上げた。
「申し訳ないね、お礼がこんな安いもので」
申し訳なさそうに言うヤン医師の隣には2人では食べれるかという程のサンドイッチやパンが入った紙袋がまだあった。
「他のスタッフ達も食べてくれたら嬉しいんだけど」
「大丈夫です、皆喜んでくれますよ」
そう言い笑いながらウンスも早速手にしたパイを口に頬張った。
1週間前にヤン医師が上層部に申請した最新機器購入と更には医師達への実績に基(もとずく)正当な報酬を支払って欲しいとの嘆願書は、最初渋っていた彼らだったが他の科からも同様の嘆願書が届き焦った上層部は最新機器購入を認め報酬は各自面談をしてからという事になった。
その申請が通ったとヤン医師は喜びお礼がしたいと何故かウンスを外へと連れ出し、戸惑いながら公園のベンチで待っていると両腕いっぱいに有名コーヒーショップの紙袋を抱えて帰って来ヤン医師にウンスは更に驚いたのだった。
「しかしそんな嘆願書まで考えていたなんて知りませんでした」
ウンスが聞くと、ヤン医師は実はと話した。
「ここの医師達は以前から考えていたらしく、それを聞いて先に自分が出すよと話したんだ」
「ええ?」
何故態々自分が上層部から目を付けられる様な事をしたのか?
元々ヤン医師は温厚な性格であり、今まで寧ろ大人しい医師で有名だった。
そんな疑問の表情になったウンスにヤン医師は苦笑している。
「・・・本当は医者を辞めるつもりだったんだけど」
「ええ?!」
「・・・何ていうか、前の場所はあまり馴染めていなかったんだ。大きい病院だと何かと派閥も出来て、医師や看護師達も仕事とは別にその集団意識が強かった。研究ばかりしていた自分は要領良く付き合う事が出来なくて疲れて逃げてしまってね」
「・・・そうだったんですか」
「どうやら私にはこの病院のが合っている様だ」
上層部の面々は多少面倒くさいが医師達やスタッフ達は常識有る者達で疎外感を感じる事も無い。
「いくら知識を詰め込んでも適材適所という意味を理解したよ」
向上心だけではそんな派閥云々は耐えられない。人間関係が絡まる組織での適応力など勉強しても出来ないものは出来ない人もいるのだ。
「・・・私が思うに、ユ先生はそういうタイプにも見えないんだけどね」
ヤン医師の眼差しにパイを咀嚼していた口を止めウンスはチラリとヤン医師を見た。
物応じしないウンスの性格と優秀な医療技術ならそんな事があっても自分の道だけを進められる筈で、小さい病院では余る技術だと本人だってわかっている様にも見えていた。
理由がそれで無ければ――。
「・・・まあ、私生活を他人が兎や角言う権利は無いですが」
「・・・お気遣いありがとうございます」
コホンと小さく咳をして、コーヒーを口に含む。
ウンスだって、転勤しようか悩んだ時もあった。
しかし、どうすれば状況が変わるかもわからず何時かは終わるならと自分から動こうと決めたのだ。
――私は、彼に何かを望んでいたのかもしれない。
しかしそれは単なる自分の希望であり、2人の関係には不必要とも思う。
もしかしたら、自分が安心する場所はここで無いかもしれない。
チェヨンの傍でそう感じた時、今が潮時だと考えた――。
「・・・ユ先生、今日の夜、時間ありますか?」
「え?」
突然のヤン医師の言葉に一瞬誰かが浮かんだ気がしたが、
「ユ先生と話がしたいという人がいましてね」
「・・・ん?」
ニコリと笑うヤン医師の笑顔は何時もの穏やかな笑顔だった。
「・・・ごめん、もう帰るよ」
「え?」
「あと、今回で最後にして欲しい」
「は?何言ってんの?」
「いや、貴女とは話が合わない」
ヨンの最後の言葉にちょっと!と叫んだ女性を席に置いてヨンは店を出た。
ずっと腹奥にあった疑問が出て来てからヨンは誰かと一緒にいても、その空気に嫌悪感を感じる様になっていた。街並みを歩いても夜とは思えない程に光に溢れ車の騒音は絶えない事に、今まで気にもしていなかったその音が耳に触り苛立ってしまう。
何時からと問わなくても既にわかっていた。
ウンスと再会してからだ。
いや、疑問は常にあった。
理由を聞かず別れた為だったのだろうと思うが、彼女が病院を移った事で更に自分とは関わりたくないのだろうと納得はした。
・・・したが、では自分の意見を言う権利は無いのか?となれば、あった筈だ。
学生時代に女を知り、自分が普通よりはモテる事もわかった。
それでも苦労して医者を目指し兵役を終わらせ希望した病院に入れた事に意外と順調に人生は進むものだと考えていた。夢と現実は違うと知った上で仕事をしていたし、望んだ場所に不満は僅かにしか出ない。
そんな時に知り合った同じ外科のユウンスも自分と同じ時期に入り、本当は大学で研究員になろうかと悩んだと酒の席で話していた。
随分と見た目と中身の違いに気付いたらヨンは彼女の近くに行き話を聞いていたのだが、どうやら彼女は強いと豪語しながら酒に飲まれるタイプで足に力が入らないと椅子から立ち上がらないでいる。
「俺が送ります」
「本当?じゃあチェ先生よろしくお願いね」
それぞれ散って行った同僚達を見送り彼女に肩を貸し、タクシー乗り場まで連れて行き自宅へと送った。
・・・が、結局は酔ったウンスは鍵を見つけられずズルズルと座り込んでしまった。
「ユ先生、だったら違う所で酔いを冷ました方が良いですよ」
「だったら、チェ先生が連れてって」
「ええ?ビジネスホテルでも良いんですか?」
「ホテルでも何でもいい、寒くない所〜」
「はぁ、全く・・・」
下に待たせたタクシーに再びウンスを乗せると運転手が尋ねて来て、
「行き先はどうしますか?」
え、と戸惑ったヨンはチラリと自分に持たれるウンスを見る。
すると、ウンスは薄く目を開けヨンを見上げて来たのだが・・・。
目が合い、
一瞬、
心臓が跳ねた気がした。
「・・・江南駅の傍のホテルまで」
「わかりました」
――言葉を発する前に唾を嚥下したのは何故だろうか?
「・・・・・」
ピタリと歩いていた足を止めヨンは横に建つアパレルショップのショーウィンドウを眺めた。
ガラスに映る自分の姿はその時と大差変わっていない様に思う。
ウンスと別れた後も自分に何か不満があったのだろうと、しかし突然の事に暫くは1人で過ごしていた。1年経って彼女から何の連絡も来ず、もう戻る事も無いと思い始めた頃病院の別な女性医師がヨンに声を掛けて来た。それは男女の関係を望んでいるのだと言い寄って来る雰囲気で悟り、断る理由も無いと付き合ったのだが・・・。
どうにも付き合い始めると彼女の言葉がヨンには煩わしく感じる様になった。
1ヶ月経つ前に別れたが、
「私のどこが悪かったの?」
尋ねて来た事にただヨンは、
「あまり話が合わないし、色々押し付けられても困る」
「男性が奢るのは当たり前だし、恋人なのだから色々協力するのは当然よ」
・・・そうか?
いや、ウンスは何も言わなかった。
言わない女性だっているだろう。
それは君の自論だと言うと怒って去って行った。
更に暫くして今度は違う女性がヨンに寄って来たが、彼女もまた付き合い始めると前の彼女と同じくなる。
重い荷物は男性だ、動くのは彼氏であるヨンであり女性はそれを受けるだけで良い。
確かにそうだが、その欲求にヨンは違和感しか感じる事が出来なかった。
「・・・何か、面倒臭い」
女性と別れた後、近くにいたイ医師にそれを話すと彼は暫く沈黙の後、
「・・・それは、チェ先生がその女性の為に労力を使いたくないという事ではないですか?」
そう言い、切れ長の目を更に薄くした。
笑っているのかただ薄めただけなのかわからないその眼差しを受け、何故か戸惑った記憶がある。
「・・・違うBARに行こう」
またあの頃の記憶を所々と思い出し、
沈みそうになる気分を変えたいと反対車線に顔を向け店を探そうとしたが、
「・・・え?」
反対車線側にあるレストランの入口前に立つウンスを見つけ、
隣にはウンスを優しく見下ろし話している男性の姿があった――。
⑤に続く
△△△△△△
ヨンの過去が見えたかな?
長い為切りました。
続きは
22時30分に更新しますー(*^^*)