
心、境界線⑧
「ただいまー」
「あら、ウンス早かったわね。もうすぐ夕飯出来るからお父さん呼んで来て、まだ畑にいると思うから」
「畑?今度は何を育ててるの?」
「じゃがいもよ」
「とうとう野菜にまで・・・。果物か野菜かどちらかにした方が良いと思うけど」
「使っていない畑が勿体ないて言っていたわね、いいから早く呼んで来なさいよ」
「はーい」
箸を振り早く行けと動かす母親に間延びした返事を返しウンスは玄関に向かって行った。
玄関を出て横道を少し登ればそこには山一面に広がる果物の木々があり綺麗に並んでいる。
代々農家だったユ家はこの土地も戦争前から変わらず所有し農業を行っているが、ユ家の子供はウンスだけで広い土地を両親だけが管理していくのは中々難しく、時々親戚に収穫等を手伝って貰っている。
以前は鬱蒼と茂る原っぱだったのを耕しビニールハウスを建て中では季節ごとの野菜を栽培し始めた父親にウンスは心配したが、母親は何時もの明るい声で笑った。
「大丈夫よ、お父さんなら。無駄だった事なんて無いから」
「働きすぎよ。夢中になるのも程々にして欲しいわ」
「具合が悪くなってもウンスが医者だから助かるわねぇ」
「もうっ」
娘の仕事をあてにして無理されたらたまったもんじゃないと溜め息を吐いた記憶が最近の事だったと砂利道を歩きながらふと思い出す。
「・・・色々許してくれる両親で私は幸せ者ね」
一人っ子に親が依存する話をよく病院で聞いていた。親の世話をせず親不孝者扱いされてしまう状況なのに両親はそんな事どうでもいいと笑い飛ばし、
「ウンスがやりたい事をやりなさい」
その言葉に感謝し希望する学校、大学へと進学し医者になる事が出来た。
「・・・まさか、また許されるなんてね」
ふらっと帰って来たウンスに驚いた両親だったが、話を聞いた暫くの後頷き了承してくれたのだ。
まだ真新しいビニールハウスに近付くと、一輪車にコンポストから取り出した肥料を入れ歩いて来る父親を見つけた。
「お父さん、お母さんがもうすぐご飯て言ってる」
「あぁ、そうか」
肥料を置いてから行くよと言いビニールハウスの扉を開け、暫く中で作業をしていたが空になった一輪車と共に出て来て、
「さて、行くか」
服に付いた泥や土を払いながら父親が声を掛けウンスも砂利道を戻る為に歩き始めた。父親と2人になるなんてここ数年あまり無かったと感じていると、「そういえば」と父親が言葉を放つ。
「・・・ウンスは本当に大邱市で良いのかい?」
「え?」
「小さい頃から言っていただろう?ソウル市みたいな大きな都市がいいって」
「あはは、ヤダ、まだ覚えてたの?でも今まで向こうで沢山働いたし、もう充分よ」
「そうかねぇ」
まだ納得はしていない様な表情の父親に笑顔で返し、ウンスはここでも大丈夫だと自分に言い聞かせた。
これは自分で決めていた事だもの。
「・・・本当に良いんですか?」
「はい、もう決めていた事なので」
「大邱市には工場が沢山あり、確かに製薬会社が豊富です。中小企業もあるので、契約してくれるかもしれませんが・・・」
「ヤン先生には本当にご心配を掛けてしまいましたね。でも、自分で探そうと考えていましたから。そうしないと信用されないでしょう?」
「確かに信用度が1番大事ですから。だから、私も彼を紹介したんですが・・・」
レストランで待っていたのはヤン医師の友人という男性で、1部上場した製薬会社の職員だった。
ウンスの話を聞いていたヤン医師の気遣いだったのだが、まだ始めてもいないクリニックの信用は薄いだろうとウンスは丁寧に断ると、その男性もウンスの真剣さを理解した様でクリニックが出来たらまた連絡をして下さいと優しい言葉を掛けて貰いその食事は終了した。
その後も幾つかの会社に電話をし、病院を辞める直前に大邱市にある小さな製薬会社との契約が取れた。幾つか薬剤を卸して貰える事が決まったウンスは病院スタッフから惜しまれつつ退職したのだった。
とはいえ、スポンサーを持たないウンスにソウル市でテナントを貸してくれる不動産は無く、地元の駅前に漸く両親が保証人となり借りる事が出来た。
――ここからで良い。
知り合いのスタッフを雇いコツコツと経営して、資金が貯まったら再びソウル市に帰る。
ウンスの人生設計はゆっくりだが、良い方へと進んでいる。そう感じているのだ。
「明日は不動産屋との話があるから行ってくるね」
「気を付けてな」
「明日から雨が降るみたいねぇ」
「じゃあ、早く帰って来なくちゃ」
10年以上一人暮らしをしていたウンスにとって何気無い両親との会話でさえ懐かしいと心が暖かくなるのだった――。
次の日は確かに朝早くから曇天で微かに生暖かい風も吹き、何時降ってもおかしくない雲行きだった。ウンスは出掛け用のスーツに身を包みヒールを履きながらリビングにいる両親へと声を掛けた。
「じゃあ、行ってくるね!」
パタパタと母親がやって来て傘を持って行けと玄関のクローゼットに手を伸ばしていると、
ピンポーンと来客なのかインタホーンが間近で鳴った。
「隣りのキムさんかしら?」
ウンスの家は畑や果物畑に囲まれ隣家も30メートル先にあり、しかも大邱市中心地より離れた場所の為、来るのは近隣の住民か宅配便位しかない。
「はーい、今出ます」
丁度出ようとしていたウンスはドアノブを掴み、扉を開けた。
外から入り込む空気の中に田舎には不釣り合いな清々しい程に透明感のあるミントの香りが混ざり、これは香水だと咄嗟にわかってしまう。
だって、この匂いは嗅いだ事のある香りだ。
――開けて良いのか?
一瞬戸惑った思考は、きっと正解だったのだろう。
「・・・?」
扉を塞ぐ様に立つ身体を下からゆっくりと目線を見上げていくと――。
「・・・こんにちは」
「えっ?!」
頭の中は有り得ないと混乱状態になり、
疑問を口に出す考えも止まったまま
目の前に立つヨンを凝視した――。
⑨に続く
△△△△△
家に来たーー😮!