チネイザンというセラピーを、初めて受けたときのこと。


「マッサージ」というより、「自分との対話」のような時間でした。


触れてもらっていたのは、お腹。

だけど、その奥から…ずっと奥深くにしまっていた記憶たちが、静かに顔を出してきたんです。



身体に宿っていた、無意識の記憶


私には、理由のない“猫への恐怖”がありました。


何かされたわけでもないのに、猫が近づくと無意識に身構えてしまう。

その自由さや読めなさが、どうしても怖かった。


そしてもうひとつは、母との関係。

幼い頃に受けた暴力も、「そんなのなかったこと」と笑って済まされてきた。


私もそれを“大したことじゃない”と思い込もうとしていました。

でも、身体は正直だったんですね。



内臓は、感情の住処


チネイザンでは、お腹=内臓に丁寧に触れていきます。

お腹って、感情がしまいこまれている場所。


怒り、不安、恐怖、悲しみ…

言葉になる前の感情たちが、そこにぎゅっと詰まっていたことを、私は初めて知りました。


肝臓に手が触れられた瞬間、不意に涙が出てきたんです。

「怖かったんだなあ」って、ようやく自分で認めることができました。



気づいたら、猫が怖くなくなっていた


しばらくしてふと気づいたら、

猫と目が合っても、身体が硬直しない自分がいたんです。


心臓もバクバクしない。

近づいても、大丈夫。


「克服」じゃなくて、「もう大丈夫」って、身体が教えてくれた感じでした。



“整える”より、“還す”という感覚


私がチネイザンに惹かれた理由。

それは“整える”ためじゃなく、“還す”ためだったのかもしれません。


「もう出てきていいよ」って、触れながら声をかけてあげるような優しさ。


過去をなかったことにしない。

「あったこと」として、自分の中に還してあげる。


それが、私にとっての“癒し”だったんだと思います。



私も、手で触れる人になりたい


これからチネイザンを学ぶのは、

同じように“言葉にならない何か”を抱えた人の力になりたいから。


自分では気づけない想いが、身体には残っている。

だからこそ、そこに丁寧に触れられる技術って、本当に希望だなと思うんです。


触れて、聴いて、還していく。


チネイザンは、私にとってそんなセラピーです。



▼深掘りした内容は、noteにも綴っています。


ご覧いただきありがとうございました。