「価値観」
価値観とは、「何を大切だと思うか」「何が良い・正しい・意味があると感じるか」という、その人なりの考え方や判断基準のことらしい。
誰と付き合っても、結局価値観の違いに迷い戸惑うモノさ
「価値観が合う人と付き合いましょう」
よく聞く言葉ですよね。
でも、そもそも価値観って何なんだろう?
私は最近、価値観っていうのは、単純に「自分が大切にしているもの」だけじゃないんじゃないかと思うようになりました。
価値観っていうのは、何かと何かを比べたときに、
「私はこっちを優先する」
と決めるための、自分なりの判断基準なんじゃないだろうか?
仕事とプライベート。
恋人と友人。
家族と自分。
遊びと勉強。
人生って、結局は選択の連続です。
そのときに、どちらを選ぶのか?
その「選ぶ理由」の中に、価値観が表れるんだと思う。
その価値観、本当に自分だけで作ったもの?
じゃあ、その価値観はどこから生まれたんだろう?
もちろん、自分の経験もある。
でも、親や先生、友人、社会の中で出会った人たちから受け取ったものもある。
誰かを見て、
「あんな人になりたい」
と思うこともある。
逆に、
「あんなふうにはなりたくない」
と思うこともある。
そういうものを一つひとつ自分の中で選んで、積み重ねていく。
だから、誰かにそのまま「植え付けられた」というより、いろいろな影響を受けながら、自分なりに作っていったもの。
同じ親に育てられた兄弟でも、価値観が違うのは当然なんですよね。
人と人なら、価値観が違って当たり前
例えば、勉強が嫌いな子どもがいる。
子どもは、
「遊びたい」と思っている。
でも親は、
「勉強してほしい」と思っている。
ここには、価値観の違いがあります。
「勉強したらご褒美をあげる」
という方法を使うこともできる。
「勉強したらゲームをしていいよ」
という約束だってできる。
でも、考えてみれば、
子どもの「勉強したくない」という気持ちは消えていない。
親の「勉強させたい」という気持ちも消えていない。
どちらかが相手の価値観に変わったわけじゃないんです。
ただ、違ったままでも一緒に行動できる方法を探した。
私は、これが人間関係なんじゃないかと思うんです。
溝を埋めるんじゃなく、橋を架ける
だから私は、「価値観の違いを埋める」という言葉に、少し違和感があります。
そもそも、埋まらないんじゃないか?
価値観は、それぞれ違ったままでいい。
溝を埋めるとか、価値観の違いをすり合わせるとか、交渉やお互いの我慢でやり過ごすとか私は言わない。
溝は埋まらない。谷はそのまま残っている。
どれだけ何を言って、何をして、何を与えて与えられたとしても、きっと、勉強は嫌いなままだから。
だって遊びたいんだよ!少なくとも、私はそう思うよ。
だったら、溝を埋めるんじゃなくて、その間に橋を架ければいい。
自分が我慢するのか。
相手に我慢してもらうのか。
何かを交換するのか。
ご褒美や報酬を使うのか。
それとも、今までとは違う第三の方法を探すのか。
橋を架ける方法はいろいろある。
そして、その橋を架けるために、
「誰が何を差し出すのか?」
という選択が必要になる。
でも、何でも譲ればいいわけじゃない
もちろん、橋を架けることが大切だからといって、何でも譲ればいいわけじゃない。
本当に大切なことまで、相手に合わせてしまったら、自分が自分でなくなってしまう。
「ここだけは譲れない」
というものだってある。
それもまた、自分の価値観なんでしょうね・・・
どこまでなら譲れるのか?
何なら差し出せるのか?
そして、何だけは絶対に差し出せないのか?
そこを考えることも、人との関係には必要なんだと思います。
価値観が合う人を探すより
「価値観が合う人がいい」
そう思うのは、当然のことです。
でも、人は一人ひとり違います。
親子だって違う。
兄弟だって違う。
夫婦だって違う。
ましてや、もともとは赤の他人だった人と、全部の価値観が一致するなんて、なかなか難しい。
だから、
「価値観が合う人を探す」
というより、
「価値観が違ったとき、どうやって橋を架けられるか?」
を考える方が、ずっと人間らしいんじゃないかな。
価値観は、優先順位を決めるための判断基準。
だからこそ、人と人の間には違いが生まれる。
そして、その違いがあるからこそ、橋が必要になる。
価値観を同じにする必要なんてない。
違ったままでもいい。
ただ、その違いの間に、どうやって橋を架けるのか。
私は、人間関係って、そういうことなんじゃないかと思うんです。




