もう少し、ADHDの可能性について考えてみたい。
昨今、「発達障害」や「適応障害」なんて言葉が街にもネットにも溢れかえっている。
要するに、普通じゃない、健常じゃない、
当たり前っていう基準に適合できない相手への「異端者の烙印」みたいなもんだ。
かくいう私も、絶賛ADHDなわけで。
これでどれだけの人に迷惑をかけて、不満を抱かせて、不快にさせてきたか?
なんて枚挙に暇がない。本当に申し訳ないと思う。
向いてない世界で、5分だけ「無双」して生きる。
でもさ、そんな私が思うのは、 「適材適所じゃないだけだろ?」
っていう、開き直りの言い訳だったりする。
もちろん、そんなことを言えば、 「そう思うんなら、そっちに行けよ!」
って怒られる。
だから、さらに申し訳ないと重ねて謝るしかない。
だって、行けないから。 今の場所で迷惑を掛けながらでも、必死に生きているわけだから。
じゃあ、活躍できる場所ってどこにあるの? そこで生活基盤が整うだけの給料が貰えるの?
って思ったら、そんなの簡単じゃないことくらい分かり切っている。
工場や事務なんて、私にとっては苦行で「地獄の方がまだ快適」なんて言いかねない。
じゃあ、営業はどうだろう?
相手の些細な変化や機微に敏感に反応するセンスはあるはずだ。
あちこち見ている分、変化にはすぐ気づける。
電気屋さんで何を買えばいいのか迷っていそうな人を見つけて声をかけるなんて、
案外すんなり出来そうじゃないか?
その独特な視点があれば、営業先でも新しいプレゼンを思いつくかもしれない。
会話の冒頭5分なら、かなり面白いトークも出来るだろう。
問題は、それを継続できないこと。
だったら、その場限り、その瞬間に全振りできる方向性の仕事なら、もしかすると天職になるかもしれない?
文章だってそうだ。
エッセイとかブログを書くのは面白い。
私もこうして書いている。
まぁ、需要はないし金にもならんけどwww
小説みたいに長編や継続的な執筆はきっと無理だ。
でも、短い文章なら書ける。その時に思ったことを、一気に言葉にすることなら出来る。
だったら、それも自分の特性の一つなんだと思う。
「諦める」じゃなくて「明らかにする」
自分の特性を知ることが出来れば、
もしかしたら、今まで無理して頑張っていた何かを手放すことが出来て、
多少なり気持ちが楽になることだってある。
きっと、それを「諦め」と言うことも出来るんだろう・・・。
でも私は、
「明らかにして、受け入れる」
って言う方が好きかな。
出来ないものは出来ない。 向いていないものは向いていない。
苦手なものは苦手。 それを明らかにして、受け入れる。
それは、全部を投げ出すこととは違うと思う。
むしろ、出来ないことが分かれば、「じゃあ、自分には何ができるんだ?」って次の手を考えることができる。
好きなことだけで生きられない
ただ、「出来ないことを頑張らなくてもいい」なんて甘い話でもない。
だって、生きるためには選択の余地が無いことなんて往々にしてあるから。
どれだけ今の仕事に向いていなくても、辞めるわけにはいかない。
「好きなことだけやればいい」 「出来ることだけやればいい」
そんな投げやりな綺麗事なんかで、誰も救われやしない。一度きりの人生を乗り切るだけで、こっちは精一杯なのだ。
私自身、好きなことだけで生きられないことなんて重々知っている。
だから、向いていない世界の会社で、今日も泥臭く藻掻いている。
それでもさ。
もし、天職なんて可能性があるんだとしたら?
そのほんの少しでもかじってみたいと思うのが、人の性じゃない?
ほんの少しでも自分の可能性を感じたい。
向いている世界で求められて、認められたい。
・・・少なくとも、私はそう思う。
クモの糸を探す
だから、どれだけ現実に忙殺されていても、ほんの少しでも可能性があるならと思ってブログを書く。
一度きりの人生だからって、散々荒波に飲み込まれて溺れたから、藁にもすがる思いでクモの糸を探して彷徨う。
5分だけの無双トークに全振りして、配信してみたりもする。
ブログだって鳴かず飛ばずですよ。
とにかく、やってみるわけですよ。 上手くいくかは別問題。
結局は向いていない社会で、今日も藻掻くことになるんだけどさ・・・
それでも、自分の向き不向きを知って、考えて、感じてみる。
それだけでも、可能性に縋るための力にはなるじゃない?
「もしかしたら、こっちなら何かできるかもしれない」
そのほんの少しの感覚を持っているだけでも、今を乗り切る糧になる。
天職が見つかる保証なんてない。
ブログで食える保証も、配信が上手くいく保証もない。
それでもやってみる。
だって、「もしかしたら」があるかさ(笑)
私は、それって十分素敵なことだと思うよ。
ワンチャンよwww



