山本五十六のあの有名な言葉
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
子供に何かを願うなら、知っていた方が良い言葉なんだろう。
「賢く聡い子になって欲しい」という親の願い
子を持つ親なら、誰もが一度は思い描くだろう?
「賢く聡い子になって欲しい」と。
今の時代なら、なおさらだと思う。
勉強が出来ていれば、英語が話せたら、プログラミングが出来たら……。
人間って、無いものねだりだから、自分が持っていない可能性を子供に夢見るのは仕方がないんだろう。
自分が手に入れられなかった可能性。
自分が出来なかったこと。
そして何より、子供には幸せになって欲しい。
だから「賢い子になって欲しい」と願ってしまう。
その願いそのものは、私はとても素晴らしいものだと思う。
でも、それで本当にいいのかな?親ガチャの当たりってなに?
そのために小さな頃から勉強をさせる。
塾に通わせる。
ダンスやピアノを習わせる。
外国語を学ばせる。
いろんな経験をさせる。
今の時代、「頭のいい子を育てるには?」と聞けば、幼い頃から学ぶことを生活にすることが大切だ、なんてAIでも答えてくる。
(GPTはそう言ったよ。)
確かに、学ぶ習慣や、分からないことを調べる習慣、考える習慣を身につけることには意味があるんだろう。
・・・でも、それで良いのかな?って私は思ってしまう。
「与える」という言葉でいいのか分からないけれど、親が用意したものを子供に与え続けることで、子供自身の自由な好奇心や、自分で探して、自分で見つけて、自分で作り出すという時間が、どんどん少なくなってしまわないだろうか?
環境や機会を与えることばかりに夢中になると、
子供が自分で不思議に思い、自分で探求して何かを作り出す「自由な好奇心」が、どんどん薄れていってしまう気がする…。
さらに現実を見れば、
世間では「頭の良さは7〜8割がDNAで決まる」なんて言われたり、
東大生の親の世帯年収は1000万円超えがザラだなんてデータが出てきたりする。
自分が勉強嫌いだったのに子供には勉強させようとしたり、我が家にそんな潤沢な資金がないのに高い理想ばかりを求めたり……。
基盤も用意できないのに道だけを強いるのは、どうしても親のエゴであり、押し付けのように思えて苦しくなってしまう。
じゃあ、親に資金がなければ、良い遺伝子がなければ、子供の未来は諦めるしかないのか?
「親ガチャ」なんて言葉で片付けて、終わりにしていいのか?
金がある親が「当たり」なのかと言われたら、私はそうは思わない。
与えるものが多いから、当たりの親というわけじゃない。
お金があっても、子供のことを見ていなければ意味がない。
「賢くなって欲しい」なら、親も一緒に歩く
だからこそ、私は山本五十六の言葉を思い出す。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
そして、その続きとして知られている言葉もある。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」
頭のいい子になって欲しい。
賢く聡い子になって欲しい。
そう願うのなら、そのために親が出来ることを無視しちゃいけないんだと思う。
「勉強しなさい」と言うだけじゃなくて、自分も学ぶ。
「なんで?」と聞かれたら、一緒に考える。
分からなければ、一緒に調べる。
一緒に遊ぶ。
一緒に失敗する。
一緒に笑う。
食事をして、眠って、話をして、ときには怪我もする。
そんな何気ない時間の中で、子供が「なんだろう?」と思ったことに一緒に付き合う。
子供に与えるだけが教育じゃない
私は、頭のいい子を育てる方法って、特別な教育方法じゃないと思う。
英語を何歳から始めるとか、何歳までに何冊本を読むとか、どこの塾に入れるとか・・・
もちろん、そういうものが役に立つこともあるだろう。
でも、それだけじゃない。
むしろ、
「頭が良くなって欲しい」と願うなら、親自身も一緒に頭を使って生きる。
これが一番大事なんじゃないだろうか?
簡単に年収が上がるわけじゃない。
DNAを変えることも出来ない。
親にどうにも出来ないことは、たくさんある。
だからこそ、子供に願うだけではなく、自分に出来ることをする。
「賢く聡い子になって欲しい」と神様に祈る。
でも・・・祈って終わりじゃない。
仕事をする。
家事をする。
子供と遊ぶ。
話をする。
一緒に考える。
子供が失敗したら、また一緒に考える。
その積み重ねなんじゃないかな?
「頭のいい子」ではなく、「一緒に頭を使える子」
親が子供に何かを与えるだけではなく、親自身が子供と一緒に歩く。
その中には、きっと好奇心がある。
「これ何だろう?」
「なんでこうなるんだろう?」
「やってみようか」
「失敗したな(笑)」
そんな試行錯誤がある。
私は、それこそが子供の頭を育てる時間なんじゃないか?と思う。
「頭のいい子になって欲しい」という願いは、悪いものじゃない。
むしろ、子供を思うからこそ出てくる、尊い願いだと思う。
でも、その願いを子供に背負わせるだけじゃ駄目なんだろう。
親が願う。
親が祈る。
そして、その願いを叶えるために、子供と一緒に歩く。
与える親が当たりなんじゃない。
一緒に歩いてくれる親が、子供にとっての大きな財産になるんじゃないだろうか?
「頭のいい子になってほしい」
その願いや祈り自体は、とても尊くて温かいものです。
だからこそ、神頼みや資金力に丸投げするのではなく、親である私たちが「一緒に歩む」という一番大切な行為を無視しちゃいけない。
お金やDNAに関係なく、子供にとっての本当の「当たり親」とは、自分のために一緒に泣き、笑い、歩んでくれた親のこと。
今日も我が子と手をつないで、時に立ち止まりながら、一緒に歩んでいきましょう。
それが私の思う、
「頭のいい子を育てる方法」
なんだと思う。


