過酷な労働。
終わらない試練。
報酬を得ても、税金や社会保険や生活費で消えていく。
働いて。
稼いで。
支払って。
また働く。
お金という資産を手に入れても、形として残すことすら難しい制度の中で、私たちは生きている。
頑張った。
耐えた。
ようやく手に入れた。
そう思った頃には、また何かに持っていかれる。
そして、また最初からだ。
そう考えると、不条理を、私たちは日常の中で何度も実感している。
何も持たない私たちが、それでも岩を押し上げる理由。
カミュの『シジフォスの神話』を思い出す。
神々の怒りを買い、巨大な岩を山頂へと押し上げ続ける刑罰を与えられた男の話だ。
山頂に達した瞬間、岩は重力に従って奈落へと転がり落ちる。
そして男は、また黙々と岩を押し上げるために坂を下りていく。
過酷な労働、終わらない試練、どれだけ報酬を得ても結局はシステムに搾取される現実。
結果として、何かを自分の形として残すことすら許されない制度の中で、私たちは生きている。
生きることがこの「不条理の繰り返し」なのだとしたら、人生は悲しすぎるとしか言えない。
「心の持ちようで幸せになれる」という最悪の欺瞞
よく耳にする綺麗事がある。
「置かれた場所で咲きなさい」とか「心の持ちようで世界は変わる」とか。
自己啓発やマインドフルネスやスピリチュアルの世界だ。
寝言は寝て言え、本末転倒だ、と私の狭量は吐き捨てたくなる。
試練として、刑罰として与えられたこの過酷な現実から、無理やり「幸せ」を見つけ出そうとする行為。
それ、精神医学でいう「ストックホルム症候群」と何が違うのだろうか?
押しても落ちる。
また押す。
成果は残らない。
意味も価値も保証されない。
それでも、押すしかない・・・
その中で幸福を探している時点で、私たちはすでに精神を明け渡し、試練を与えた側に寄り添って「降伏」しているのだ。
そんな風に達観して「シジフォスは幸福だったと想像せねばならない」なんて言えるのは・・・
安全な観客席から見ている批評家か、岩を落とす神々の側(支配者層)だけ。
本来なら、
なぜ岩を押さなければならないのか。
なぜ神々は罰を与える権利を持っているのか。
なぜ押し続けることを受け入れなければならないのか。
そこを疑わなければならないはずだ。
押し上げ続けている当人は、虚しさの中でただ藻掻くしかない。
幸せなんか見つかるわけがない。
見付けたら、それはもう罰でも試練でもなくなってしまう。
もちろん、日々の生活をサバイブするために「小さな目標」を設定することは否定しない。
昨日より少しだけ高く持ち上げたという事実、諦めない自分への賞賛、心が折れないという反抗。
その「達成の愉悦」をもって不条理に抗うメンタルは、現代を生きるために絶対に必要だ。
けれど、その小さな達成が、最終的な目的にたどり着けるかと言えば、
結局は虚しく転がり落ちる岩の前で「無駄なあがき」になってしまう。
それが現実だ・・・
美学や矜持という「何も無い者の、最後の砦」
誰も助けてくれない孤独の中で、何かに縋りたいと思うのが人の心というもの。
そんな時、精神を明け渡さないための「美学」や「矜持」を守りたいと思う。
けれど、私がそうやって目に見えない美学や矜持を大切にしようとしてしまうのは、
なんてことはない、ただ「モノ」が無いだけの話なの・・・。
友人がいないわけじゃないと言いたいけれど
家族を思いたいと言いたいけれど会えなかったり
思い出の品と言いたいけれど持っていなかったり
ないから、縋るものが他にないから、内なる美学に縋っているだけ。
本来なら、精神論なんかじゃなく、もっと現実の物質の方が、より大切にできるに決まっている。
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思い出のアクセサリー
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記念の写真
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家族や人との繋がり
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SNSのフォロワーだっていい
そういう目に見えるモノを必死に守って、
大切にしようという行為の方が、よっぽど一生懸命に、命を懸けられる。
私じゃない「あなた」なら、持っているものがあるんじゃないか?
だからこそ、私は思う。
私じゃない誰かなら、その手の中に「持っているもの」があるんじゃないか?
守りたい大切な人や、手放したくない思い出の品が、きっとあるはずだ。
自分自身は何も持たず、ただ矜持だけを胸に岩を押し上げている。
けれど、もしあなたが「守りたい大切なモノ」を持っているなら・・・
そのモノを大切にするためだけになら、このクソみたいな試練や罰の溢れる世界の中でも、泥水をすすりながら生きていっていい。
それだけが、この不条理な世界で現実を生きるための、唯一の、そして正当な選択理由になる。
完璧な幸福なんて探さなくていい。
ただ、その手にある大切なモノから、目を離さないように。


