「敷かれたレールの上を走る人生なんてつまらない」

そんな言葉を、よく聞く。

でも、私はいつも思うんだ。

「贅沢病も極まると、そこまで美しい寝言が言えるのか」と・・・。

「自由」という名の、ノーリターンなギャンブル

 

人生のレールがあるだけ、かなり良いことじゃないか?

だって、レールって誰かが敷かないと、そこには無い。

自分が何の対価も払う前から、誰かが進む道を用意してくれている。

進学。

就職。

安定した生活。

それって、上げ膳据え膳みたいなものでしょ?

美味しくいただくのが一番じゃないか。

 

ただ、その「上げ膳据え膳」のプラチナチケットをドブに捨てる前に、一度その快適なシートに深く腰掛けて、全力で走ってみたらいいのに、と思うだけです。

  頼むから、そのおじさんを私にくれ(笑)

会社にも居るんだよ・・・。

「おじさんの紹介で入社しました」

「親が決めたところに来ました」

それで、どこに入ったの?

トヨタの正社員?

 

最高じゃん・・・

 

何が問題なん?

「別に好きじゃないんです」

「自分で決めたわけじゃないし」

「やりたいことがあるんですよ」

おっと?

え?

マジで?

 

変わってくれよ(笑)

 

くれよ、そのおじさん。

紹介してくれる人がいる。

親が進路を考えてくれる。

正社員として入れる場所がある。

将来の保障がある。

それを持っていない側からしたら、喉から手が出るほど欲しい。

 

願っても手に入らない。

最初から用意されてもいない。

レールを敷いてくれるような存在もいない。

 

だから、私からしたら、

人生舐めんな。

って思うんだ。

 

  正社員は、仕事だけしていればいい

もちろん、正社員が楽だなんて言わないよ?

激務かもしれない。

叱責も厳しいだろう。

勉強も多い。

責任もある。

忙しくて、休日は寝るだけかもしれない。

 

でもさ・・・

それだけでいいんだよ?

 

仕事をして、言われたことをして、それで来月の給料がある。

休日は休日として使える。

散財してもいい。

趣味に使ってもいい。

寝てもいい。

何もしなくても、次の給料日まで生活は続く。

 

それは、とても大きなことだ。

 

私みたいに、何の保証も無く、何の担保も無く、何の保護も無い立場だと、仕事の時間だけでは終われない。

休みの日に何をするか?

仕事の前後に何をするか?

 

結局、仕事以外の何かで未来の可能性を積み上げないといけない。

 

ブログを書く。

ニュースや情勢を調べる。

投資を学ぶ。

失敗する。

本を読む。

人との繋がりを作るために、色々な場所へ顔を出す。

声をかける。

話をする。

愛想を振りまく。

それでも、何も上手くいかない。

 

ハイリスクのノーリターンなんて日常だ。

だから、自由という言葉にも少し笑ってしまう。

自由?

好き勝手?

違う。

自由という名の自己投資にしか、時間を使えないだけなんだ。

 

  それでも、休日の価値を決めたのは私だ

ただ、ここで正社員を妬んで終わる話ではない。

私は、休日を自己投資に使うことへ、自分なりの意味と価値を見いだした。

 

何も考えず、その日暮らしを選ぶことだってできる。

 

今日が楽しければいい。

未来なんて知らない。

それも一つの生き方だ。

 

休日を散財に使うのか。

趣味に丸投げするのか。

自分を満たすために使うのか。

未来のために自己投資するのか?

 

どれが正しいなんて話じゃない。

有意義に物差しを作らせるな。

私はそう思う。

 

コンサートに7900円を払って、自分に酔えたなら、それは最高に有意義だ。

花束を贈って、意味を乗せられたなら、それも最高に有意義だ。

結果じゃない。

行為じゃない。

可能性じゃない。

満足して、良かったと思えたなら、それでいい。

 

意味と価値は、言い訳をする理性が決める。

存分に自分を満たして、自分に浸れる言い訳を作ればいい。

それが、自分の時間を自分のものにするってことだと思う。

 

  才能とは、呪いのような個性でもある

私は「レールがあること」も「レールが無いこと」も一種の才能だと思っています。

ただ、みんな「才能」という言葉を綺麗に解釈しすぎなんですよ。

 

 頭が良いとか、絵が上手いとか、そんな輝かしいものだけが才能じゃない。

  • 嫌われる才能

  • 逃げ出す才能

  • 波乱に巻き込まれる才能

  • 苦労を背負い込む才能

良くも悪くも、その人が持って生まれてしまった、剥がせない個性。 

他人がその都合のいい一面だけを切り取って「才能」と呼んでいるに過ぎない。

 

だから、レールがないことも、私のこの波乱に満ちた日々も、持って生まれた個性(才能)なんです。 

公平じゃないし、妬ましいけれど、これが私の手札。

 

私は持っていないから、持っている人を羨む。

変わってくれよって、本気で思う。

でも、私の波乱が才能で、個性で、センスじゃないなら、きっと私は価値の無い存在になる。

だから、私は私の波乱を、私の才能として使いたい。

 

もし、この泥臭い波乱を「私の才能、私のセンス」とでも言い訳して抱きしめなければ、私はただの価値のない存在になってしまう。だから、私は私の呪いを、才能として使い倒すしかないんです。

 

  レールの上でも、荒野の上でも、「美学」は作れる

ただ、正社員を妬んで「世界は不条理だ」と寝そべるつもりはありません。

そんなトーナメントみたいな生き方は退屈です。

 

人生は誰かと競う戦いではないし、答え合わせもありません。 

 

他人のレールをいくら呪って壊したところで、自分の足元に新しい道が湧き出てくるわけじゃない。

結局、自分の立たされた場所から、何かを投げ込むしかないんです。

レールの上だろうが、何もない草原だろうが、泥沼だろうが。 

 

「与えられた枠組みの中で、どうやって走るか」の意味と価値は、いつだって自分の理性が決められます。

 

たとえば、コンサートにチケット代を払って、最高に自分を酔わせられたなら、その時間は有意義。 

 

別に贈らなくても誰も困らない花束を、あえて誰かに贈って自己満足に浸れたなら、それも最高の価値。

結果なんてどうでもいい。 存分に自分を満たして、自分に浸れる「言い訳」を自分で作ること。

 

それこそが、自分の時間を自分のものにするという、最も手堅くてクールな【美学】です。

 

  与えられた才能を、価値の無いものにするな

生まれる場所も、親も、最初に立たされるステージも選べません。 

選択肢なんて、最初からほとんど用意されていないのが現実です。

 

レールがあるなら、捨てる前に走ってみてほしい。

レールが無いなら、投げ出す前に賭けてほしい。

 

だって、それしか選択肢が無いんだから。

持っているものは選べない。

持っていないものも選べない。

でも、持っているものをどう使うか。

持っていない場所で何を作るか。

その時間にどんな意味を与えるか。

そこには、自分の美学を入れられる。

 

レールの上でも、どう走るかは自由だ。

レールが無くても、進むか佇むかは決められる。

人生を舐めるな!!

 

レールがあるなら、捨てる前に限界まで加速して走ってみればいい。 

レールがないなら、投げ出す前に、その不毛な荒野に命を賭けてみればいい。

それが、与えられた才能を、自分の人生に変えるってことなんだと思う。

 

人生を舐めずに、淡々と、だけど最高に明るく、自分の持っている「呪いのような才能」を使い切ってやりましょう。