誰かの力になりたい。 困っている人がいたら、そっと手を差し伸べたい。

その気持ち自体は、たぶん、ものすごく尊い。それは否定しない。

けれどね。 それっぽい優しい言葉や、それっぽい正義感、それっぽい寄り添い。

 

 ……そんなものじゃ、目の前の請求書は消えないんだよ。

「誰かを助けたいなら、まず持つ側であれ」という、冷徹で切実な綺麗事。

誰かのために使えるものを持ちたい。

時間でもいい。
労力でもいい。
資金でもいい。
言葉でもいい。
場所でもいい。

自分の中に余ったものを、誰かに渡せる側でいたい。

 

誰かを助けたい。
誰かの力になりたい。
困っている人に手を差し伸べたい。

その気持ちは、尊いものだと思う。

個人的に誰かを助けようとすることは、とても素敵なコトだと思う。

  でも、それっぽい言葉や、それっぽい振りだけでは、やっぱり誰のコトも助けられない。

私は思う。 

誰かを本当に助けたいなら、まず自分が「持つ側」にならなきゃいけない。

お金でも、時間でも、体力でもいい。 精神的な余裕、知識、信用、あるいは仕組みを作る力。

 

何でもいい。

何かを持っているから、誰かに渡せる。 

自分のなかに「余白」があるから、それを誰かの不足に回せる。

持っていない者が、持っていないものを無理に差し出す。

 

それは「救済」なんて格好いいものじゃない。 

 

ただの、自己犠牲だ。

「優しさ」ってさ、渡した側が決めることじゃない。

「私は優しくした」

「あなたのためにこれだけやった」 

そう口で言ったところで、受け取った側がそれを優しさだと感じなければ、それはただのエゴだ。

 

助けることも、全く同じ。 

こっちが「助けた」と思っていても、相手が「助かった」と思わなければ、何の意味もない。

 

それどころか、ただの押し付けになり、恩着せになり、相手の尊厳をナイフのように傷つけることだってある。

だから、助けるって行為は、反吐が出るほど難しい。

 

 「助けたい」という尊い気持ちの裏には、いつでも醜いエゴがへばりついているから。

よく、自己犠牲は美談にされる。

親が子のために。

大切な人のために。

自分を擦り切らせて、身を削って。

耳ざわりはいいよ。

綺麗だ。

 

でも、渡された側はどう思う? 

「私のせいで、あの人は苦しんでいる」 「自分が重荷なんだ」 そうやって、

助けられた側が自分を否定して、苦しむことだってある。 自己犠牲を美談にしちゃいけない。

 

あれは呪いだ。

持てない者は、まず自分を守ればいい。 

 

  誰かを助けることを考えるのは、持つ者の役目だ。

ここで、ノブレス・オブリージュ(持てる者の義務)という言葉が出てくる。

 

強者っていうのは、高いところでふんぞり返って、勝ち誇る人間のことじゃない。

 自分の余白を、誰かの不足に回せる人間のことだ。 

 

高いところにいる者が頭を下げるから、その頭に意味がある。 

 

余裕がある者が、その余裕を差し出すから、価値がある。

本当に追い詰められている弱者に「みんなで助け合おう」なんて求めるのは、ただの残酷な負担の押し付けだ。

今日を生きるだけで精一杯の人間には、誰かを思いやる余力なんて残ってない。

 

じゃあ、持つ側になれば、ただお金や食べ物を配ればいいのか?

・・・それも違う。

 

  私は JBJ Soul Kitchen を象徴的に見ている。

私が、ジョン・ボン・ジョヴィの「JBJ Soul Kitchen」という食堂に強く惹かれるのは、そこが単に無料の食事を配る場所じゃないからだ。

あそこは、お金がある人は支払い、支払えない人は働く。

そして全員が、同じテーブルで同じように食事をする。

格安食堂でも、教会の施しでも、哀れみの無料配布でもない。 

 

そこには「働く環境」があり、「食べるための行為」があり、自立へ向かう「道筋」がある。 

何も持たない人でも、ただ施しを待つ行列に並ぶ惨めさを味わわずに、他の人と同じように、ちゃんと「人」として飯を食える。

 

彼らが与えているのは、肉や野菜じゃない。 

「尊厳」であり、「居場所」であり、人として立てる「小さなポリス(社会)」そのものなんだ。

 

助けるとは、ただ施すことじゃない。

優しい言葉をかけるだけなら、上からの慈善だ。 本当に助けるとは、相手が人として立てる場所を作ること。

食事を与えるのではなく、食べられる環境を作る。 

 

お金を渡すのではなく、生き直せる余地を作る。 

相手が尊厳を失わずにいられる場所を、用意する。

 

そこまで泥臭くやって初めて、「助ける」という言葉が、ようやく少しだけ現実味を帯びてくる。

「誰かを助けたいなら、まず持つ側であれ」

これは、強者になって威張れという意味じゃない。

 

弱者は何もするなという意味でもない。 誰かを助けたいなら、助けられるだけの「余白」を必死に持て、ということ。

持っていないものを差し出せば自己犠牲になり、その自己犠牲を美談にすれば、持たない者からさらに搾取する最悪の思想に変わる。

 

現実は、綺麗事じゃ動かない。

助けるなんて、きっと幻想だ。 それでも私は、誰かが尊厳を失わずに立てる場所を、作れる側の人間でありたい。

 

 シンプルフレーズ

誰かを助けたいなら、まず持つ側であれ。

 

持っていないものを差し出せば、それは救済ではなく自己犠牲になる。

持つ者が差し出すべきなのは、施しではない。

持たない者が、人として立てる場所だ。