それでも、シンプルフレーズは諦めない
「自閉スペクトラム症(ASD)」
「失感情症(アレキシサイミア)」
「共感性の欠如」
私の取扱説明書になり得るかもしれない名前が、この世界にはいくつか用意されている。
原因だって、今の世界には懇切丁寧に列挙されている。
脳のどの部位が、どんなメカニズムで機能していないのか。
専門書にもネットの海にも、いくらでも答えらしきものがある。
現代社会は実に親切だ。
「分からない」という不気味なものに、ちゃんと名前を与えて、分類し、可視化してくれる。
けれど、名前がついて原因が判明したからといって、社会や組織の中に私たちの「居場所」が自動的に与えられるわけではない。
「名前は分かった。
でも、私たちの輪に入れないなら、それ相応の扱いになるのは仕方ないよね」
分類はされても、包摂はされない。
名前があっても、居場所は与えられない。
それが、この世界の持つ本当の冷たさだ。
会話という名の承認欲求の物々交換
最近、本当に会話が難しいと思う。
誰もが簡単に盛り上がっている。
私だって、それなりに会話は出来ていると思う。
でも、同じように盛り上がっているか?
そう聞かれたら、そうじゃないとも思う。
少なくとも、私は自分が振った話でないと、なかなかうまく回せない。
相手の話を聞くのが得意じゃない。
これが一番たちが悪い。
人は誰もが語りたい。
人は誰もが教えたい。
子供も、人に教わるより教えたいらしい。
教える方が楽しいし、娯楽になり、満たされる。
伝説の、
「志村!うしろうしろ!」
あれと同じだと思う。
自分が気づいたことを言いたい。
自分が知っていることを渡したい。
自分の感情を受け取ってほしい。
会話は、情報交換だけじゃない。
会話は、承認欲求の物々交換でもある。
人は、自分の中にある感想や想いといった、不確かな、形のない主観を会話に差し出す。
そして相手に同じ色で染まってもらうことで、感情の足場固めをしている。
でも、私にはその感情を受け取るカゴがない。
相手の「語りたい娯楽」の受け皿になれない。
相手が求めている共感の反応を、自然に返すことが出来ない。
だから、計算する。
演じる。
顔色を伺う。
合わせる。
擬態する。
それは社会における生存戦略にはなる。
でも、それ自体が自分を見失う原因になる。
無我か、全肯定の孤独か
演じているだけでは満たされない。
でも、本当の自分では誰も寄り付かない。
ここが悲しいほどに、詰んでいる。
社会で生き残るためには、無我になる。
相手に合わせて、空気を読んで、求められた反応を返す。
でも、それを続ければ、自分がどこにいるのか分からなくなる。
かと言って、世間の啓発本が言うように、
「自分らしく生きよう」
「自分のペースで生きよう」
と舵を切れば、待っているのは周囲との断絶だ。
全肯定の孤独。
私は私でいい。
私を否定しない。
無理に合わせない。
それは綺麗な言葉だ。
でも、その先に誰もいなかったら?
その静寂は、やがて自己否定と自責へと反転していく。
「やっぱり私が悪いのか」
「やっぱり私はおかしいのか」
そうやって戻ってくる。
恋人が欲しい。
誰かと繋がりたい。
居場所が欲しい。
そう思った時、入り口で求められるのは、自分を殺して演出した虚像だ。
でも、本当に理解してほしいのは、その奥にある「共感できない実像」だ。
実像を明かせば、相手にとって期待外れになる。
同族を求めても、お互いに共感の回路がない以上、破綻するかもしれない。
悲しいほどに、詰んでいる。
バランタインのグラスを傾けながら、私は一度、静かに投了の準備をしかけた・・・
それでも、シンプルフレーズは諦めない
しかしだ。
シンプルフレーズは諦めない。
大丈夫って言いたい。
手を差し伸べるためにいるのが、シンプルフレーズなんだ。
ここで投了を宣言するためだけに、私は言葉を紡いでいるわけじゃない。
だとしたら?
全部じゃなくていいんじゃないか。
全部を理解してもらおうとするから詰む。
全部を隠して演じるから苦しくなる。
全部をさらけ出すから誰も寄り付かなくなる。
だったら、部分的な打開は可能じゃないだろうか?
趣味の一部分だけ。
好みの一部分だけ。
嫌いや苦手の一部分だけ。
大切にしたい何かの一部分だけ。
全部じゃなく、一部分だけを公開する。
一部分だけを公表する。
一部分だけに理解を求める。
これは、ギリセーフだと思うんだ。
最初から全部を認めてもらいたいとか、全部を理解してもらいたいとか、全部分かってほしいとか。
それはどんな人だって無理なんだ。
だから、切り捨てるんじゃなく、切り分ける。
一部分だけにフォーカスする。
そこだけを、共感でも共有でも理解でも押し付けでもいいから、求めていく。
全部を押し付けるから重い。
でも、一部分なら、それは表現になる。
私の場合は、シンプルフレーズだ
言葉で手を差し伸べること。
大丈夫って言いたいこと。
誰かの逃げ場になりたいこと。
そしてもう一つ。
「冴羽獠」を目指す生き方の姿勢。
普段はお調子者でいい。
ふざけていてもいい。
軽く見られてもいい。
まともじゃないと思われてもいい。
でも、本当に誰かが詰みそうな時。
本当に逃げ場をなくした時。
本当に手を伸ばす相手がいない時。
その最後の場面で、ちゃんと手を取れる人でいたい。
冴羽獠のかっこよさは、完璧な正義じゃない。
綺麗な聖人君子でもない。
ふざけて、壊れていて、どうしようもない部分を抱えながら、
それでも最後には人を見捨てないところにある。
私が目指しているのは、そういう姿勢だ。
全部の私を理解してもらわなくてもいい。
全部の私を受け入れてもらわなくてもいい。
この一部分だけは、誰にも譲らないし、世界に突き立てていく。
居場所は、全部じゃなくていい
居場所って、全部の自分を受け入れてくれる場所だと思っていた。
でも、もしかしたら違うのかもしれない。
居場所は、全部の自分が許される場所じゃない。
一部分の自分を、ちゃんと置ける場所なのかもしれない。
名前を知るだけでは、世界は一ミリも優しくならない。
だから私は、全部の私ではなく、一部分の私を世界に突き立てる。
言葉として。
美学として。
シンプルフレーズとして。
居場所は与えられない。
なら、静かに刻み込むしかない。
全部を分かってくれなくていい。
でも、この一部分だけは見てくれ。
ここに、私はいる。



