私は、戦うことを否定しない。
暴力っていう言葉だけを否定しない。
これが大前提だ。
ただし、戦うっていうのは殴ることだけじゃない。
言葉で線を引くこと。
態度を変えること。
距離を取ること。
記録を残すこと。
関係性を変えること。
助けを求めること。
無視すること。
拒絶すること。
逃げること。
場を変えること。
二度と同じ土俵に立たないこと。
これ全部、戦い方だと思う。
そして、暴力としての力だと思うんだ。
怒りは悪い感情ではない。
怒りも悲しみも全部・・・
喜怒哀楽の一つであり、人間らしさを保つために必要な感情だ。
ただし、怒りは扱いを間違えると、人を傷つける。
怒りが生まれる原因は、突き詰めれば「気に入らない」という感覚に近い。
自分が正しいと思うこと、大切にしていること、必要だと思うことを蔑ろにされた時に怒りは生まれる。
また、悲しみ・辛さ・苦しさ・悔しさが、怒りという形で表に出ることもある。
人が怒りを抑えようとするのは、怒りそのものが悪いからではない。
人間関係を壊したくないから。
周囲との関係、今までの自分、他人からの評価、演じている自分、そして誰かを傷つけないために怒りを抑えようとする。
ただ、怒りは自分より強い相手には向かいにくい。
強い相手には悔しさや口惜しさは生まれても、怒りとしてぶつけられない。
その代わり、怒りは自分より弱い相手へ向かいやすい。
子供、後輩、家族、自分に逆らえない人。
だから辛い。
人間だから、怒りをぶつけてしまう時もある。
だから「ごめんなさい」は大切だ。
でも、ごめんなさいで済まないのが人間の感情でもある。
大人の怒りが子供に向かうと、その子供はさらに弱い相手へ怒りを向けたくなる。
そうやって悲しい連鎖は終わらない。
歴史は繰り返される。
だからこそ、怒りには吐き出す場所が必要だ。
ブログでも、配信でも、SNSでもいい。
誰かを名指しで攻撃するのではなく、黙々と不満を垂れ流す場所を持つことは、十分に有りの選択だ。
怒りを人にぶつけるくらいなら、言葉にして外へ逃がせばいい。
と・・・、色々考えていて、自分の怒りの正体にも気づいた。
今回私が怒りを覚えたのは、「自分が正しい」と思ったからではないか?
実に傲慢な考えがあったように思う。
誰かのために、困っている人のために、という大義名分を抱えていた。
けれど、それは余計なお節介であり、正義感を振り下ろそうとする傲慢さでもあった。
相手に伝わらない。
相手が聞かない。
聞こうとしない。
話し合いを求めたのに、それが叶わなかった。
その独りよがりの結果が怒りに変わっていたんではないかと思う。
ただし、それを単純に悪・悪かったとは言えない。
誰かが困っている。
誰かが嫌な思いをしている。
それを解決したいと思った自分がいた。
だから、善悪では片付かないと思うんだ。
人間関係において、理解し合うことは不可能に近い。
だから本来は、妥協点を探し、落としどころをつけ、お互いに線を引き合うことが必要になる。
それが人間関係だ。
しかし、相手がその線を踏み越えてきたらどうするのか?
言い訳をして、理由をつけて、誤魔化して、無理やり押し通してきたらどうするのか?
その時、傲慢や善悪の話ではなく、相手は「敵」という認識になる。
ここでいう敵とは、憎む相手ではない。
自分の領域を侵してくる相手。
妥協点を探せない相手。
話し合いが成立しない相手。
こちらの線を踏みにじる相手。
つまり、自分を守るために警戒すべき存在のこと。
そして、大前提として、暴力を絶対悪として否定しない。
自分を守るための暴力、正当防衛としての力の行使、侵されないことを保持するための力は必要だ。
自分を守るためには、あらゆる手段を選択肢から消してはいけない。
そうでないと、生きられないから・・・
ただし、「自分を守るために戦うこと」と、「自分の正義感を相手に振り下ろすこと」は違う。
その違いに気づいたからこそ、自分の傲慢さに嫌気がさす。
けれど、それもまた大切な関係構築の一つの手段としては否定できない。
シンプルフレーズ
怒りは悪ではない。
けれど、怒りの奥には、自分の正しさや傲慢さが隠れていることがある。
それでも、自分の線を踏みにじられた時、敵を敵として認識し、戦うことまで否定してはいけない。
敵とは、悪人のことじゃない。
自分の線を踏み越えてくる存在のことだ。
戦うとは、相手を潰すことじゃない。
自分の領分を取り戻すことだ。
自分を守る為に戦うことを否定したら、生きていくことすら不可能になってしまう。
搾取されるだけの、家畜で奴隷と変わなりから

