私は、いつもアクションを起こす側だ。
誰かに声をかける。
話を振る。
場の空気を見て、会話のきっかけを作る。
そうやって自分から動くことが多い。
“自分が動かなくても、誰かの中に自分が存在している感覚”
別に、それが嫌いなわけじゃない。
むしろ、自分から動いた方が楽な時もある。
待っているより、自分で動いた方が早い。
自由だし、自分のペースでいられる。
でも、ふと思う時がある。
「たまには、声をかけられる側になりたいな」
誰かに誘ってもらいたい。
誰かの方から話しかけてほしい。
誰かの中に、自分の存在が浮かんでいてほしい。
それは、派手に必要とされたいというより、
「自分が動かなくても、誰かの中に私は居るんだ」と感じたいだけなのかもしれない。
自由に見える人ほど、寂しさを隠している
私は、周りから見ると一人で自由な人に見えるらしい・・・
一人で動ける。
一人で過ごせる。
自分の好きなことをしている。
それは確かに、私にとって大切なことだ。
自由でいたい。
誰かに縛られたくない。
自分の時間や選択権を手放したくない。
でも、自由に見えることと、寂しくないことは同じじゃない。
一人でいられるからといって、
誰からも声をかけられなくて平気なわけじゃない。
自分から動けるからといって、
誰かに気にかけてほしくないわけじゃない。
ここが、少しややこしい。
誘われたいけど、誘われたら面倒くさい
正直に言えば、誘われたいと思う。
でも、誘われたら誘われたで、面倒に感じることもある。
予定を合わせるのが面倒。
気を遣うのが面倒。
行ったら行ったで疲れるかもしれない。
だったら一人でいた方が楽だと思う。
だけど、誘われないと寂しい。
この矛盾が、自分でも厄介だと思う。
必要とされたい。
でも、縛られたくない。
気にかけてほしい。
でも、干渉されたくない。
誘ってほしい。
でも、行くかどうかは自分で決めたい。
なんて面倒な人間なんだろうと思う。
でも、たぶんこれは私だけじゃない・・・と、思う。
人はきっと、誰かに必要とされたい気持ちと、
一人で自由でいたい気持ちの間で揺れている。
欲しいのは予定じゃなくて、気にかけてもらうこと
たぶん、私が本当に欲しいのは、予定そのものじゃない。
「今度行こう」
「一緒に来る?」
「無理ならいいけど、一応声かけた」
そのくらいの軽さが欲しい。
強制じゃなくていい。
絶対に行きたいわけでもない。
毎回誘ってほしいわけでもない。
ただ、ふとした時に思い出してもらえたら、それだけで少し救われる。
自分から声をかけなければ何も始まらない関係は、少し寂しい。
私が動かなかったら、この関係は止まるのかな。
私から話しかけなかったら、誰も来ないのかな。
そう思うと、なんとも言えない寂しさがある。
声をかけられるというのは、ただの誘いじゃない。
そこには、
「あなたのことを思い出したよ」
という小さな証明がある。
自由でいたい。でも、忘れられたいわけじゃない
私は自由でいたい。
一人で動ける自分も嫌いじゃない。
誰かに依存しすぎない自分も、たぶん悪くない。
でも、だからといって忘れられたいわけじゃない。
放っておいていい人になりたいわけじゃない。
声をかけなくても大丈夫な人として、雑に扱われたいわけじゃない。
自由な人に見える人にも、寂しさはある。
一人で平気そうに見える人にも、
誰かに気にかけてほしい瞬間はある。
誘われたら面倒。
でも、誘われないと寂しい。
この矛盾を抱えている自分は、たしかに扱いづらいのかもしれない。
でも、それは欠点というより、
人間らしい揺れなのだと思う。
私は自由でいたい。
でも、誰かの選択肢の中に、少し居たい気持ちもある。


